【序】
剣がある。
一つは、大ぶりの両手剣で、俺でも辛うじて片手でも振るえるか、という程の長さと厚みを備えている。
一つは、細身の片刃の剣で、先の両手剣には劣るものの、十分な長さがあり、薄く仕立てられている。
凝った持ち手のデザインは、どちらも振るう者を選ぶのだと主張するようだった。
両手剣には、大きな赤色の石がはめ込まれていて、片刃の剣には、青色の小ぶりの石が、四つ、組み合わさるように意匠の中に配置されている。
「この剣は・・・。」
と、どこからか、聞き慣れた男の・・・けれど、聞き慣れない随分と柔らかな声音。
「この剣は?」
ほとんど無意識に問い返す。
「この剣は、私と貴方。」
「俺とお前?」
「そう・・・。互いに、互いを・・・・めに、造ら・・・。」
不意に声が途切れて、聞き取りにくくなる。
「なんだって?」
苛立ち気味に問い返す俺の声は、果たして届いたかどうか。
「・・・・しい。私は・・・。」
弱々しく、声が続くが、それは俺の問いに対する答えなのかどうか。
「・・・ない。」
途切れていたわりには、何かを否定する言葉尻だけが、やけにはっきりと耳に残る。
一対の剣は、ただ、目の前で、鈍い光を放ち続けていた。
【1.呪われた剣】
「おんやー!!美しいじゃないのさ!!」
突然、背後から大きな声を掛けられて、ビクゥッ!と肩が竦むのを抑えられず、思わず手にしていた重たい荷物を取りこぼしそうになり・・・けれども、背後から素早く踊るような足取りで素早く伸ばされた、しなりとした腕が、思いのほかしっかりとした動きで、その荷をハッシ、と掴み取る。
「オリヴィエ〜!!脅かさないで下さいよぉ〜・・・。」
思わず、ヘナヘナと腰が抜けたようになってしまう。
「アンタが驚きすぎなんだっつーの!」
些か理不尽に過ぎる悪態を付きながら、彼は受け取った二本の剣の内、華奢な一本を近くの書籍が山積みになったテーブルの上に置き、重厚な一本を両手で取り上げて、「フゥ〜ン?」と鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で魅入るように目の高さに上げる。
私は、やれやれ、と腰を支えながら姿勢を正すと、コホン、と咳払いをしてから、一言説明する。
「あ〜・・・。この剣は、たった今、届いたばかりなんですよ〜。」
彼がこれほど興味を持つということは、美術品としても十分鑑賞に耐えるものだということだろう。そのことに、少し興味を惹かれつつ、
「この剣は、ある惑星の百年戦争のきっかけとなった、という曰くを持つ剣でしてね・・・。」
と、この剣を入手した経緯について簡単に述べる。・・・が、それでも短気な彼には(といっても、私からすれば、守護聖の面々は全員短気の部類ではあるが)長過ぎる説明だったようで、鞘を眺めながら聞いていたものの、説明の終わり際になって、遮るように言った。
「つまり、その曰くつきの剣が、サクリアに関わるかもって仮説のもと、調べてみたくなったってこと?」
「はい。まあ・・・。そんなところです。」
正確な理解というには程遠いようにも思ったが、『何故、私がこの剣を入手したいと思ったか』という動機について言えば、その通りなので、肯定しておく。
「ねぇ。ルヴァ。」
彼は、華奢な肩を竦めてクス、と忍ぶような笑い声を漏らした後、艶っぽい笑みを浮かべると、
「この剣、誰かさんたちに、似てると思わない?」
といって、華奢な剣に持ち替えて、鞘を取り去り、剣先を照明に翳してみせた。華奢な剣は、蒼い石が4つあしらわれた豪奢な柄と、刃に使われている鋼が珍しい物質であること以外は、特にこれといって、変わったところはない。
「誰か?」
私は、彼の言及に興味を持った。彼は勿体ぶるように、片眉を持ち上げてダークブルーを煌めかせ、些か人の悪い笑顔になると、
「リュミちゃんと・・・・オスカー。」
蒼い剣を持ち上げてから、机に押しやった重厚な方の剣を指差して言う。瞬間、何か眩しい光に目が眩んだような感覚を覚えて、思わず目を眇める。
耳元で、どこか聞き覚えのある数名の声が、
『いつま・・・・ていたい。』
『・・・でなけ・・・・ば・・・。』
『・・・がッッ!!』
『・・・ぬ!・・・を!』
何事か、囁く。喧噪のような雑音に塗れ、聞き取れずに、私は思わず、
「今、なんと・・・?」
と聞き返して・・・。それで、目の前の華やかな彼が、『アンタだいじょーぶ?』とでも言いたげな不審な顔つきで見つめているのに、ハッと我に返る。
「え?だから、リュミちゃんと、オスカーと似てるねって。」
繰り返されて、私は思わず、フッ、と唇から吐息を漏らすようにして笑ってしまった。
「・・・??・・・ルヴァ、アンタ、だいじょーぶ?」
思った通りの問いかけに、
「ええ。・・・ええ。大丈夫ですよ。・・・貴方は、本当に面白いことを言いますね。」
私は些か安堵しながら、件の百年戦争に思いを馳せた。
気づくと、部屋には誰も居らず、どうやら自分が来室中の彼の存在を忘れて思索に耽っていたらしいことに気づく。きっと呆れるようにして彼は帰ってしまったのだろう。よくあることとは言え、些か申し訳ないような気持ちになる。
ふと、椅子に立てかけるように配置された、鈍い光を放つ、二つの剣に視線をやって、マジマジと見ているうちに、華奢な一方の剣を持つ騎士の出立ちのリュミエール、重厚な一方の剣を持つ騎士の出立ちのオスカーを想像してしまう。二つの帝国に切り裂かれた、まるで対照的な二人は、互いを打ち消すような存在であるように感じられると同時に、互いを引き立てているようにも感じられる。
オスカーはともかく、争いを厭うリュミエールが騎士とは・・・と、夢の守護聖に些か影響され過ぎている自分の夢想を諌めながら、
「・・・・何が、あったのでしょうね・・・。」
私は再び思索に耽る。凝った首を解すように「うーん」と、首を一度回してから、心当たりの文献を仕舞った書棚を漁り始めた。
【2.苛立ちの感情】
聖殿の廊下を、足早に進む。
カツカツと、いつも通りに鳴り響く靴音は、だが、いつもよりは苛立ちを含む音色に違いない。
バンッッ
会議室の扉は、俺の焦りを反映し、激しい音と共に開いた。
「一体、何事ですか!これは!!」
俺は、ジュリアス様の御前ということも構わず、扉を開くなり、言った。
「あー・・・。そんなに大きな声を出さずとも、聞こえていますよ。」
ルヴァの優しい声音が、今ばかりは、酷く鬱陶しい。ほとんど意識もせず、ルヴァを睨みつけてしまう。俺の様子に、小さくルヴァは首を竦めて、溜め息を吐いた。
「とにかく、座れ。」
ジュリアス様の落ち着いた様子も、俺の苛立ちを一層煽る。・・・が、
「座れ、と言っている。」
嗜めるような響きに、俺はやっと、尚沸き起こる焦燥感を横へ置きやり、腰を下ろす気になった。無言で座った俺に、ジュリアス様もルヴァと同じく、小さく息を吐く。
会議室には、ルヴァ、ジュリアス様、そして、クラヴィス様が集まっていた。
「まず、お前の方で感じている事を聞こう。その後、研究院の調査で分かっている現状を説明する。」
「感じている事も何も・・・。水のサクリアの、消失。それ以外に何があると言うのですか。」
落ち着こうという気持ちとは裏腹に、俺の声音は激高してしまったときのように、不安定だった。
「落ち着け・・・と言っても、難しいかもしれぬが・・・。」
ジュリアス様は、渋い顔のまま、続けた。
「確かに、現状、水のサクリアは、リュミエールから失われている。何故かは分からない。守護聖交代の兆しも見えぬ。一時的なものかどうかも分からない。このようなことは、前例がない故な。」
ざわ、と俺は全身が総毛立つのを感じた。
「アイツは・・・どこです?」
冴えてしまった脳裏を感じながら、問う。
「・・・。」
クラヴィス様に、ちらりと他のメンバーの視線が集まったのを見て、俺はクラヴィス様に視線を据え、重ねて問う。
「どこですか!」
「・・・私の館で、休んでいる。」
重い声は、しかし、要領を得ない。
「無事、なんですか?」
「身体はな。・・・問題は、精神の方だ。」
クラヴィス様の応答に、ギリ、と俺は奥歯を噛み締めた。
「それで、どうすれば回復するのですか。」
「それが分かれば苦労はせぬ。」
呆れたような闇の守護聖の言い様に、俺はとうとう爆発した。
「では、ここでこうしていても、無駄ということですね。俺はリュミエールのところに行きます。お好きなだけ、議論なさって下さい!」
立ち上がって、俺は踵を返す。
「あー、オスカー。」
「オスカー!!」
ルヴァとジュリアス様の声に、俺は動きを止める。
「其方らしくもない。サクリアのさざめきに耐えかねるのは分かるが、少し落ち着け。」
らしくもない・・・?確かに、らしくもない。けれど、感じた事もない苛立ちを前に、俺は何もかもをメチャクチャにしてしまいたい凶暴な気分だった。
「お前に、頼みたい事があるのだ。」
続けられた言葉に、俺は、拳を握りしめてから、向き直る。
「ここで話を続けるのは難しいようだ。リュミエールの側で話そう。その方が、お前もいくらか落ち着くだろう。」
ここ1週程、会っていなかった男は、蒼白な顔で、クラヴィス様の邸宅のゲストルームのベッドに、横たわっていた。まるで・・・死んでいるかのように。
「お前のサクリアは、普段は、リュミエールのそれと、バランスすることで成り立っている。だから、今の不安定なお前に頼むのは、酷な事かも知れぬ・・・。が、やはり、お前しか、居ないだろうと思う。」
ジュリアス様と、ルヴァの話の概要はこうだった。
出張から帰ってきて、かなりの疲労を感じていた様子のリュミエールは、何故かクラヴィス様の邸宅に足を運び、そのまま倒れた。疲労に倒れる事そのものは、大した問題でもなかったのだが、その後、2日程、意識が回復しないままに今日を迎え、挙げ句、今朝から、水のサクリアの気配の一切が消えた。
原因は、分からない。
「炎のサクリアは、その性質故に、水のサクリアに対して、最も感受性が高い。だから、お前が行って、調べる事が、もっとも合理的だろうと、思うのだ。」
「はい。」
取り乱している自分について、何度か嗜められながら、説明を聞き、俺は頷いた。
自分の感情が際限なく広がっていくような、この感覚は、落ち着かない。けれども、落ち着かないからこそ、何かしていたかった。
ふと、視線を感じ、顔を上げると、ジュリアス様が苦虫を噛み潰したような顔で、俺を見つめていた。俺は、この時初めて、俺自身のことを、リュミエールのことと同様に、心配して下さっているジュリアス様に気づいて、喚き散らしていた自分を恥じた。
リュミエールのサクリアを、取り戻す事ができるかどうかは、分からない。・・・けれど、いずれにせよ、リュミエールの意識を回復するための、手がかりが必要だ。
普段は、顔を合わせては言い争いばかりしていた、水のサクリアの主の白い顔をじっと眺める。
近づく度に、顔を合わせる度に、自分の内面が毛羽立った水面のように、さざめいて、落ち着かなかった。けれど、今はそれを感じない。感じないことが、俺を却って落ち着かなくさせている。それが、何か、やるせないことように感じた。
『お前は、居ても、居なくても、俺を苛立たせるんだな・・・。』
「行きます。何をすればいいのか、おっしゃってください。」
きっぱりと言った俺に、落ち着きを感じ取ったのか、ルヴァが、はぁ、と安堵の息を吐いていた。
【3.遠い呼声】
「この遺跡に来て、それから、リュミエール様は気分が悪くなられたようでした。その後、すぐに出張を切り上げられたのです。」
エルンストの説明を聞きながら、遺跡に無造作に配置された石を一つ一つ検分する。これといって、問題を感じない惑星だった。治安は安定しているし、サクリアのバランスもそれほど不均一でない。文明の高度化も、惑星の年齢にふさわしいもので。敢えて言えば、水のサクリアが十分惑星を充たしているにも関わらず、惑星が、水のサクリアを未だ求めていることくらいだ。
9つの石が、1つの石を取り巻いている。9つの石は、サクリアに関係あるのかとも思うが、この惑星では、守護聖信仰も女王信仰も進んでいない。それに、天然の洞窟に、ただ、石を運び込んだようなコレは、神殿と呼ぶには、些か質素に過ぎる。惑星の発展の中で、取り残された信仰の跡地、とでも言うべきだろうか。しかし、何の信仰の・・・?
『・・・ス、カー・・・』
不意に、誰かの呼声がして、振り返る。
「?・・・呼んだか?エル・・・」
エルンスト、と続けようとして、視界が歪んだ。目眩?と足を踏み出して、宙を掻くような感覚に襲われる。え?と思う間も無く、暗闇に全身が絡めとられる。
失いかけた意識に、『オスカー』と、遠く微かに、リュミエールの声が聞こえた・・・気がした。
***
目覚めた場所は、暗闇の中だった。・・・ということは、目覚めていない・・・?
思わず、自分の目が確かに開いているのかを確認しようと、自分の顔に手をやろうとして、何か鎖のようなものに、拘束されていることに気づく。
「な・・・に・・・?」
ガキッ・・・
反射的に渾身の力を込めて、身動きしようとして、叶わない。天地も分からない、頼りない感覚の中、焦燥感が募る。
ふと、眼前に、スポットのように光の帯が落ちた。それで、自分が背後の物体に、鎖でやや前傾に固定されていることに気づき、天地の感覚を取り戻す。
光の中で、靄が人型を形作るようにして、やがて、薄青い、ヒトとも思えない・・・けれども、見慣れた一人の男が現れた。
男は、絹のような、薄く光を放つ白い布をラフに纏った格好で、ぼんやりと定まらない視線で、俺を見上げる。極力素肌を見せないリュミエールとは思えぬ、片方の肩をむき出しにし、胸板も一部見えてしまっているその格好に、俺は訝しむように目を細める。
いつもは、宇宙をその瞳に閉じ込めたような輝きを放っている視線が、今はただ、奈落の底を思わせるように、瞳孔が開いていて、ただ、虹彩だけが、奇妙に蒼い光を放っていた。それが、普段からヒトらしくない男を、一層人外の者のように見せている。
「私は、水のサクリア。」
表情を失ったまま、男はゆっくりと、周囲に反響する声で呟いた。すぅ、と手が上がり、俺の顔を白い指が指し示す。
「お前は・・・。炎のサクリアの器。」
それから、ゆっくりと、男は目を細め、微笑した。その微笑に、とてつもない悪意を感じて、俺はゾッと悪寒を募らせる。と、同時に、確かにその男から立ち上るような水のサクリアを感じ取っていることに気づく。
「お前に、できるだろうか。」
微笑したまま、男は自分の身を緩く抱いて、視線を落とした。ごくり、と知らず、渇いた喉を湿らすように己の唾を嚥下してから、
「何をだ。」
と、低く問うた。
「お前には、できまい。」
再び表情を失って、まっすぐに俺を見やる蒼く輝く瞳は、落胆しているのか、それとも、期待しているのか、判別できない。
何事か、言ってやろうとして、
「だが、試す価値はあるだろう。」
その人外に、言葉を遮られる。男は、再び、今度は自分の手を己の真横に向けて上げる。そこに、再び、男が現れた時と同じように、靄が立ち上がり、楕円に、今度はどこかの惑星の風景が映し出された。海岸線に、沿うように狭い白い砂浜、それを更に囲むように森が広がっている。緩くカーブして続く海岸線の先に、岬が突き出しており、その上に、白い円筒状の建造物が佇んでいた。まるで潮風の匂いまで感じられる。俺は見覚えの無いその風景に、何故か懐かしさを覚える。
男は、そのビジョンを見やっていた視線を再び俺に戻すと、
「お前に、できるだろうか。」
と、再び問うた・・・。
何が、とはもう俺は問わず。
ただ・・・。
「できるさ。」
と応えた。
そこで、俺はまた、自分の意識が緩やかにブラックアウトするのを感じた。
【4.暖かな空気】
「殿下。お召しに参上致しました。」
書き物をしていたらしいジュリアス様は、ふと、手を止めて、顔を上げると、少し困ったように眉を下げて、小さな仕草で人払いをする。部屋付きの従者が退室したのを見計らって、
「殿下は止せ。二人の時は。」
と言った。俺は、少し苦笑して、
「それでは、ジュリアス様。」
というと、ジュリアス様は、うむ、と頷く。俺が執務机の前まで歩み寄ると、デスクの上で両肘をついて、手を組み、その上にゆるりと顎を乗せてから、少し疲れたような様子で、切り出した。
「父上がな、『一の騎士』を選べと言って来た。」
俺は、『もしかして』と勝手に心を躍らせてしまう。そんな気持ちが顔に出たのだろうか、ジュリアス様は、少し寄っていた眉をますます寄せ、右手の指先で眉間を揉むようにしてから、
「そこは喜ぶべきところではないと思うが。」
ほとんど吐息混じりに吐き出す。
「私は、お前以外に選ぶべき者を持たぬ・・・が。これで、またお前への風当たりが厳しくなる事は確実だ。」
続けられた前半の言葉に、思わずはっきりと笑顔になってしまう。それに、後半のジュリアス様の心配は、俺には無用のものに思えた。
「『殿下は赤毛の青二才を重用しすぎる』というアレ・・・でしょうか?」
陛下の重用する近習のジイサンの一人を思い浮かべながら、口調を真似して言うと、ジュリアス様はクッ、と喉を詰まらせるようにして笑い、
「『あの赤毛の小僧、幼い頃から殿下付けだったことを鼻にかけおって!!』という、アレ・・・だな。」
別の近習の真似をしてみせる。思わずお互いの渋い顔つきに、プッと吹き出して笑ってしまう。
一頻り笑い合ってから、
「俺は気になりません。」
とまっすぐにジュリアス様に視線を返しながら、素直なところを述べた。実際、ジジイ共が何を言おうが、気にならない程の実力はあるつもりだった。催し物における成績はともかく、確かに実戦の業績という意味では乏しい部分もあるが、それすら、膠着状態で戦の少ないこの時代に生まれ落ち、年齢に鑑みて、客観的に十分なものだと自負していた。
「大帝国きっての、無類の自信家とは言え、根拠は十分だろうからな。しかし、それだからこそ、嫉妬は尽きないであろうな。」
俺相手にだけしばしば見られる、やや意地悪な言い様に、俺は苦笑を漏らす。それから、一つの疑問について、口にしてみた。
「『一の騎士』は、随分昔の制度ですよね。私は候補者として選んで頂けて幸甚ですが、何故急に?」
うむ、と顎を小さく引いてから、また溜め息が、その紅く熟れた唇から漏れ出る。
「父上は、『民に刺激を』というが・・・。私の手の者によると、どうも真帝国の方では既に『一の騎士』を選んだようでな・・・。クラヴィスが・・・重用している優秀な若い騎士だという。」
苦々しく、常に比べて弱い声音で、けれども淡々と語るジュリアス様の表情が、『クラヴィス』と発音する時に、一際眉間に力が入ったのに気づいて、俺はなんともやるせない気分になる。
ジュリアス様と『反乱軍』の皇子クラヴィスは、俺が物事を判別できる年になる頃には既に交流が途絶えてしまっているものの、幼いながらも共に遊び、共に学んだ、友人のような関係だったと聞いている。よくよく考えれば、『反乱軍』・・・真帝国の皇帝は、庶子とは言え、ジュリアス様のお父様・・・皇帝陛下から見れば腹違いの兄に当たる。つまり、クラヴィス皇子はジュリアス様から見れば、血の繋がった従兄弟ということだ。やんごとなき・・・まして帝国の頂点に立つ皇室の血縁関係や家族関係の感覚が、俺のような庶民と全く異なっていることは、頭では理解しているつもりだが、本音ではどうしても共感しきれない。
「真帝国に、我が大帝国も対抗して・・・ということでしょうか。」
「おそらくはな・・・。二皇帝時代・・・まして、血縁関係でありながら、互いに『反乱軍』等と・・・馬鹿馬鹿しい!このまま父上の治世の間、膠着状態が続くようなら、私はクラヴィスと同盟を結ぶつもりでいる。アレも無益な争いを好むタイプではない。もう長く交流する事もままならぬが・・・人はそう簡単には変わらぬものだ。拗らせてしまった父上や伯父上の仲は今更どうしようもないが、間違っても戦などということにならぬようにせねば・・・。」
発言者がジュリアス様・・・皇子殿下でなければ、それは直ちに不敬罪となる内容だ。ここに憲兵でも居たら腰を抜かすだろうな、と俺は内心に過らせつつ、けれども、王笏と厚いマントを纏い、ジュリアス様が皇帝となる場面を想像してしまう。
「何がおかしい?」
片眉を持ち上げ、訝しむように問われる。知らぬ間に、微笑んででも居たのだろうか。俺は顔を引き締めつつ、力のこもった群青を見つめて自戒し、瞳を伏せる。
「いえ。良い皇帝になられるであろうな、と・・・。」
素直な言葉は、呆れたような長い溜め息に語尾を持っていかれてしまった。
「・・・つまり、真面目に聞いていなかった、と。」
ややコミカルに唇を尖らせて言うジュリアス様に、
「いいえ!ちゃんと聞いていましたよ!」
そりゃないでしょう、と俺は取りなしてから、苦笑して続ける。
「・・・昇進を願う生真面目な軍人ならば、是が非でも開戦を、と進言するところなのでしょうが・・・。『赤毛の小僧』は、不真面目なのか、あるいは昇進に興味のない聖人なのか、どうやら、主に似て、慎重派のようです。」
二人だからこそ許される物言いではあるが、『ほらね?きちんと聞いていたでしょう。』と言外に込めて言えば、
「ふむ。」
と言う満足気な返事に加えて、ニヤリと、やや人の悪い笑みが返って来た。
「『一の騎士』に選ばれたと知って喜んでいる騎士が昇進に興味が無いとは私は俄には信じぬな。まして宮廷で噂の絶えぬ色男が聖人等とは!」
反論の余地はないが、いや、余地がないからこそ、あまりの言い方に、と、ムゥ、と俺は拗ねたように顔を顰めてしまう・・・が、ジュリアス様は、そんな俺に瞳を優しくして続けた。
「・・・だが、不真面目な騎士を持ったことは、私にとっては重畳と言える。なにせ、一人の若き賛同者を得たのだからな。」
微笑み返してから、顔を引き締め、姿勢を正し、敬礼してみせる。
「恐悦至極に存じます。」
慌ただしい日常や、権謀術数渦巻く宮廷が、この部屋の暖かな空気からは、どこか遠いもののように思えた。
【5.タダのヒト】
「・・・スカー、・・・・オスカー。」
聞き慣れた男の声に、ゆっくりと意識が浮上する。背に、堅い感覚。重い瞼をなんとか上げると、見慣れた能面が・・・ただし、常にはないことに、些か頬に擦り傷等作って、薄汚れた様子で・・・俺を見下ろしていた。男の顔の後ろに、岩肌の天井が見えている。・・・洞窟・・・?ということは、先ほどまでエルンストと居た・・・?
「お前、風呂入った方がいいぞ。酷いツラだ。」
いつもそうであるように、何を思う間もなく、口から勝手に剣呑な言葉が出る。俺を見下ろしていた男は、切れ長の瞳を一回り大きく見開いてから、呆れたように息を吐いて、俺を覗き込むようにして倒していた身体を持ち上げる。俺も、呼応するように身体を起こして、頭を緩く振る。髪を整えようと手をやると、少々砂っぽかった。
「なんだ。その、『何を馬鹿なことをほざいているのだ。この男は。』とでも言いたげな顔は。」
身体が強ばっている。どれくらい気を失っていたのだろう・・・。近くにこの男の他に、人の気配はない。・・・ということは、此処は、彼処ではない・・・?
「貴方にしては、なかなか良い線ですね。正しくは、『アホか。このスットコドッコイ。』でした。」
返されたあまりの悪態に、言葉を失って、口がパクパクする。
「●×△□×○!?!?」
男は、俺の左隣で、片膝を立て、長い髪を鬱陶しげに掻きあげた。
「・・・・全く、なんで来たのですか。私一人でも危ういのに、この上、よりによって貴方と一緒だとは・・・。まるで、生きて聖地に帰れる気がしませんが・・・。」
はーーーー、と長々と深刻に吐かれた溜め息。そして、続く小さな独り言。
「・・・貴方に、今は会いたくなかった・・・。」
随分な嫌われ様だ。『今は』?『いつも』の間違いだろう。
「お前が呼んだんだろーが。」
と、俺に目も合わせようとしない男に、こちらも独り言のように返す。『オスカー』という俺が聞いた呼声は、確かに、この男のものだった。だが、それはこの男から発されたものではないのかもしれない。
「・・・はい?」
予測出来た恍けた返事に、俺は頭を振る。
「いや、なんでもない。それより、ここは何処だ。状況は。」
「分かりません。此処へ来て、半日程・・・でしょうか。ここは、視察で私が来た神殿・・・視察で訪れた惑星には神殿跡があったのですが、其処と、位置関係は同じようです。地形も周囲を歩いたところ、似ています。同じ惑星の、違う次元・・・あるいは、違う時代・・・でしょうかね。まあそれで、身体を休めるために、この洞窟に戻って、寝ている貴方を見つけた、という訳です。」
短い問いに、適切な応答を得て、俺は「ふむ」と頷く。俺が感じた直感は、どうやら当たっていたようだ。・・・だが。
「お前、やはり、サクリアが・・・。」
「貴方もですよ。気づいていますか?」
言われて、自分もサクリアを失っていることに気づく。それで、『あの』不快極まりない焦燥感を感じずに済んでいるのか・・・と俺は失笑した。
「お互い、タダのヒト・・・という訳か。」
「おそらく。」
周りを見回して、男も俺も、出張用に惑星の文明レベルに合わせて作られた、麻の布のチュニックに、革のパンツ、革を雑に革紐で足に固定するように巻き付けた靴のままという軽装であること、加えて、洞窟の佇まいは、例の神殿に酷似していることを確認する。だが、彼処に設置されていた石はなく・・・・まあ、つまりタダのがらんどうだった。そして・・・。男は、半日程とやらで何があったのやら、服も身体も薄汚れていた。まるで無人島に追いやられた囚人の2人組だな、とやや不謹慎な感想を思いついて、またも苦笑が漏れる。
「状況確認は終わりました?貴方の方の状況を教えて下さい。」
能面のまま、長く薄青い睫毛に濃い色の瞳を隠しつつ、俺に緩く視線をやって、男は問うた。
「ああ。聖地では、お前が視察から戻ってクラヴィス様の邸で倒れた後、2日程そのままだったんだが。翌朝、お前のサクリアがロストした。俺もその時異変に気づいた。ジュリアス様、クラヴィス様、ルヴァと共に、倒れたというお前をクラヴィス様の邸で確認して、ジュリアス様から、お前が視察に出た惑星に、俺が行って手がかりを得ることになり・・・で、お前が気分が悪くなったという神殿跡を訪れて、気を失い・・・今に至る、という訳だ。」
最後に肩を竦めてみせる。
「なるほど。」
男は能面をピクリとさせることもなく、小さく顎を引いて、短く納得の声を漏らす。仕事嫌いのこの男も、どうやらこの状況下では、それなりに仕事をする気になっているらしい。
気を失った後、『水のサクリア』と名乗るお前に似た男にあったのだと、言うべきかどうか、ほんの少し、逡巡した。けれども、あれがただの夢である可能性もあるなと思うと、口にすべきでない気もして、結局告げなかった。
「それで?」
俺の逡巡はともかく、納得の声を漏らしたきり、黙ったままの男に、促すように声をかけると、男は俺に視線をピタリと合わせ、口を引き結んでから、淡白に告げた。
「この洞窟の周辺だけは、『出ない』のですよ。」
突然、要領を得なくなった男の言に思わず片眉を跳ね上げて、苛立ちを表明する。
「出ない?何が??」
ふぅ、と息を吐いて、男は再び、視線を自分の正面に戻し、大きくぽっかりと口を広げている洞窟の入り口の方をボウ、と見やる。
「何が・・・。分かりません。私を襲う獣・・・といって、良いかもしれませんが。」
能面からは感情を読み取れないが、その言葉は穏やかじゃない。
「襲う?」
「ええ。まあ、外に出れば分かりますよ。・・・出ます?」
男は、やる気無く俺に視線を投げた。
「ちょっと待て。獣に襲われる?どうやって回避する。丸腰だろ?」
そもそも、お前、どうやって生き残った?という言外の驚きを読み取ったのか、
「それほど強い訳ではないのですよ。最初は拳で・・・。後は、途中で拾った、あの木の棒等を使って。・・・争いは、好まないのですが。」
男はチラリと、視線を洞窟の入り口脇に投げ捨てられている木の棒にやって、最後はお決まりの台詞で締めた。その棒切れは、長さも俺の伸長の半分ほどしかなく、太さに至っては、ヤツの手首程しか無い。使うのがお前じゃ、子豚を昏倒させるのがやっとだと思うが・・・と、内心で訝しみつつ、『それほど強い訳ではない』の程度を推し量る。
しかし・・・なるほど、それでその汚れ具合か・・・。
俺は、頭を切り替えて、すっくと立ち上がり、パンパン、と身体に軽く喝を入れるつもりではたいた。強ばった身体を解すように、肩を回し、間接の動きを確かめる。
ふむ・・・別段、悪くないな・・・。サクリアのない久々の身体というのも。
「状況を確かめたい。俺とお前がサクリアを失って此処に居るってことに、意味があるのかどうかは分からんが。・・・サボるのは、お前と違って、性に合わんしな。」
男は、俺の評に対し、さも不満げに、片眉を跳ね上げて、じっと俺を見上げてから、闇の方に似た腰の重さで、やれやれと立ち上がると、
「私と貴方とは、全く、最悪の組み合わせですね。果たして、生きて聖地に帰れるでしょうかね。」
と、小さく、縁起でもない台詞を繰り返して、溜め息を吐いた。
【6.浅はかな夢想】
「右は任せた!!」
「えい。」
男の『俺の本領発揮!!』とでも言いたげな弾んだ声と共に、男は見つけた棍棒とでも言うべき丸太を軽々と振り回して獣に躍りかかる。その声に、我ながら力の抜けたかけ声で答えて、こちらも手にした例の棒切れで獣の頭を叩く。それほど力を入れた訳ではないが、私の腰程の身長のある、虎が二足歩行したらこうなるのでは?というような格好をした獣は、ベイン、とややコミカルにひっくり返り、やがて、黒い霧のようなものを発して、霧散した。
この男と二人とは・・・と無邪気な顔で寝入っている男を見つけたときは、目眩を覚えるようだったが、実際、この男が来たのは私にとっては僥倖だったのかもしれない。私たちを襲う獣は、数を増しているものの、その実に8割程は、男が一人で相手にしてくれる。私はどうしても数が多い時に発生する取りこぼしを、片付けるだけで済んでいた。
立て続けに7体の獣を相手にして、辺りが静寂を取り戻したのを確認して、私は力を抜いた。
それにしても・・・。
「進む程、数が増えるな。おそらく、こっちの方角から、コイツらは来ているってことか。」
こっち、と上げられた指先を見つつ、私は、思わず笑ってしまう。怪訝そうな顔をした相手に、
「いえ、気の合わぬ貴方と、同じ事を考えていたのか、と少し。」
棒切れを持っていない方の手を上げて、軽く釈明し、続ける。
「獣の種類は今の所、2種のようですね。今回の黒い虎のような姿をしたものと、先ほど相手をした、銀色のコブラに足が生えたような姿のものと。」
何か意味があるのかどうか。
「・・・の、ようだな。」
少なくとも、『彼等』にとって、私たちが外敵であることは間違いが無い。気配がするときは、必ず襲って来る。考え始めた私に、チラと視線をやってから、男は気配を伺うように少し上を向く。
「こちらの方角から、水音がすると言ったな?お前、体力はまだ保ちそうだな・・・。様子を見て、可能であれば、身体を洗いたい。」
意外と綺麗好きなのだな、と私は苦笑する。そういえば、起き抜けに『風呂に入れ』等と間抜けなことを言われたのだった、と思い出す。
「何が可笑しい?」
訝しむ男の声は固い。私に対する、いつもの彼の態度。私は何かが胸に支えたようないつもの感覚を息を吐いてやり過ごす。
「いえ?・・・いきましょう。」
周囲に獣の気配がしないことを確認して、率先して前を歩く。私の方が耳が良いようで、策敵には私の方がずっと役に立っている。
暫く行くと、程なく、川辺に出た。喉を潤してから、服を脱いで、水に入る。男と合流する前に作ってしまった擦り傷の類いが、多少染みたが、それ以外に特に異常はない。私は、透明度の高い水に、身体が勝手に歓喜してしまうのを感じながら、数歩の距離で、底が深くえぐれていることを確認しつつ、水深の深いところへと泳いで入る。ジャックナイフの要領で、流れが緩やかな場所を選び、水底に向かって進む。汚れた髪が、水に取られて、後ろに流れ、気持ちが良い。そのまま暫く水圧を楽しむように遊泳してから、ゆるりと浮上した。水が清らかに過ぎるのか、小さなメダカ程の魚が散見される程度で、それほど魚は居なかった。頭を出して、川辺を振り返ると、腰まで浸かる位置で身体を洗う男が「信じられない」とでも言いたげにこちらを見ていた。
ドルフィンキックで男の側まで泳ぎ戻ってから、ザバリと身体を持ち上げる。水から出ると、身体が重い。私は髪を後ろに全て流してから、私より随分筋肉がついて、重そうな体躯を眺めた。惜しげもなく晒される身体。男の裸体を実際に見るのは初めてだ。彼の前では、何故かいつも、強ばった無表情を晒してしまうという癖を、得なことだ等と、初めてポジティブに評価する。
男は、私の身体をチロリと見やって視線を逸らすと、
「この先どれほど体力を消耗するか分からないのに、泳ぐとはな。」
と、早速説教を始める。
「この程度で体力を消耗したりしませんよ。陸地で歩いている方が余程疲れます。」
顔を顰めて思わず反論する。
「流石、水の守護聖様だな。全く、恐れ入るぜ。」
はっ、と呼応するように顔を顰めて肩を竦める。いつもこうだな、と私はうんざりと溜め息を吐く。ジャバジャバと水浴びをするように水を巻き上げて身体にかけている男に、
「その身体の洗い方こそ、無駄というものでしょうに。」
と、一言言わずにはおれず、剣呑な声音でごちた。小声であったはずだが、しっかりと男の耳に入ったのか、男はムッとしたように眉根を寄せると、ザバ、と膝を折るようにして、乱暴に全身を沈めた。赤い頭髪が水に揺れている様を眺めるうちに、悪戯心が芽生えてくる。男が頭を上げようとするところに、全体重をかけて、上から両手で男の頭を押さえる。ガボボボ、と慌てたように彼が息を吐き出したのを確かめて、溜飲が下がり、力を抜く。ザバァ、と私より重たそうな身体が水中から上がる。水を飲んでしまったのか、ゲホ、ゲホ、と咳き込んでいた。水に浸かってすっかりヘアスタイルが乱れ、必死に呼気を整える、普段のニヒルな表情の炎の守護聖とは思えぬ姿が可笑しく、思わず吹き出してから、声を失って笑ってしまう。
「貴っ様ッッ!!」
息が整うなり、がなり声と共に繰り出された拳をするりと避けて、バランスを崩した男の足を、水中で払う。バシャン、と今度はつんのめるように倒れた男がまた笑いを誘う。暫くそのような応酬を繰り返し、程なくすっかり互いに息が上がってしまった。はぁ、はぁ、と互いに粗い息を吐いて、休憩しているうち、また言い知れぬ可笑しさが込み上げて来た。男は暫く物珍しそうに、声を失って腰に手を当て、笑う私を眺めていたが、やがて、込み上げて来たものを吐き出すように吹き出すと、アッハッハッハ、と額に手を当てて、身体を逸らして豪快に笑い始めた。
「はー、可笑しい・・・。」
すっかり疲れてしまった腹筋を押さえながら、やっと笑いが収まって言うと、
「全くだ・・・。なんでお前と裸でじゃれ合っているのだか。」
顔にへばりつく髪を後ろに撫で付け、男は仕方なさそうに笑った。キラキラと樹々の隙間から漏れ込む陽光を、川面が跳ね返して、男の顔や、胸筋を照らす。鳥や虫の鳴き声と、樹々が風に葉を揺らす音。
私は思わず目を眇める。
遠く、聖地とは異なる時間、異なる場所、異なる風、異なる・・・。
男の様子を眺めながら、心がどこか遠くに行ってしまうのを感じる。
やがて、視線に気づいた、というように、男は瞳をこちらに戻すと、ビク、と何かに怯えるように身体を強ばらせた。
怯える?いつでも自信に満ちた、この男が・・・?私に・・・?何故・・・・?
「守護聖を、辞めてしまいたいと思ったことは・・・?」
不意に、思っていることとは関係のない問いが、口をついた。男は、どこか強ばった顔のまま、けれども視線を逸らさずに、
「思っても、仕方の無いことは、俺は考えない。」
きっぱりと返答した。私は、見つめ返したまま、その答えに、やわり、と笑んだ。男はますます顔を蒼白にする・・・が、やがて、私と相対している時の、いつもの顰め面を取り戻す。それを眺めて、ハッ、と息を吐く。
「でしょうね・・・。けれども、私は、貴方と違って、よく考えるのです。考えても仕方の無いことを。」
瞳を伏せる。ざぁと、一陣の風が吹き抜け、不意に上半身を外気に晒しているのが寒く感じ、自分の身を緩く抱く。男は、何事か言いたげに、一度口を小さく開いて、こちらに小さく手を伸ばし・・けれども、私に触れず、何も言わずに、口を引き結んだ。
その手が、もし、私に触れたなら・・・。触れたなら・・・。どうなるというのだろう。どうもしない。私は自分の浅はかな夢想に苦笑した。
伏し目がちの薄青い瞳は、何かを耐えるような色合い。周囲の光の粒を受けて、その様はまるで一枚の絵画のようだった。私にそれを堪能する暇も与えず、男はくるりと身を翻してしまう。
「出るぞ。風邪を引く。」
言い残し、川縁に引き上げる。私は、一瞬の絵画を惜しみながら、自分の目の高さにある肩甲骨を追った。
水を払って、服を身に付ける頃には、既に夕暮れに差し掛かっていた。
「獣の出所を探りたい。せっかく前進したんだ。戻らず野営すべきだと思うが。」
「構いませんよ。先ほど、道中で食べた実を付けた木、沢山あるようですし。」
男と合流する前に目を付けていた桜桃に似た木の実を、男に安全を確かめてもらってから食べたのだが、美味とは言わないが、食べられるものだった。獣以外に凶暴な動物を見かけていないとは言え、しかし火は焚かなければならないだろうな、と私は周囲を見渡す。渇いた枝葉には事欠かないだろうが、火打石等あるはずもなく、木を擦り合わせて着火しなければならないだろう。根気よく火を起こす作業は、体力自慢の男に任せよう・・・、と思いながら、
「私は実を集めます。貴方には火を焚く準備と寝床の準備を任せても?」
と言うと、
「分かった。川に近い方が水が取れて何かと便利だ。野営地は彼処にしよう。」
男は、川から少し上った所にある大きな木を指差した。
「了解。」
短く返して、私たちは散開した。
小さな木の実は、チュニックの裾を上げて回収し、十分な量がすぐに集まった。大きな木を目印に集合場所に戻ると、既に控えめに火が上がっている。椅子代わりに用意されたのか、丸太が近くに二本横たえられていて、その一本にオスカーが座って火の番をしていた。水に湿っていた髪は、既に渇いていたようだったが、整髪料のないこの環境では、いつものように逆立ってはいない。しかし、この丸太を運ぶのは、それなりに体力を消耗しただろうに・・・。
『余分な体力消耗は一体、どちらです・・・?』
やや呆れながら、私は、もう一方の丸太に座り、これまた準備良く用意されている、大きな瑞々しい葉を見つけ、「ここでいいですか?」と、視線で問う。「ああ」と男が答え終わる前に、そこに集めた実を広げる。
既に日は随分暮れて、周囲は夕闇に沈みつつある。物理的な温度に加えて、炎が何か心を暖かくさせるようだった。二人で火を囲み、木の実を食すだけのささやかな食事は、すぐに終わった。
「ネズミでも居れば狩るんだがな。」
と零した男に、私は笑顔で、
「私の居ないところで食べて下さいね。」
と返す。フン、と鼻の鳴る音。パチパチと、渇いた小枝が弾ける音が、心を柔らかくする。この男と囲む沈黙が、これほど心地良いとは・・・聖地で寝ているという私に聞かせてやりたいものだ、等と不謹慎なことを脳裏に過らせた。
あるいは、これは単なる、いつもの・・・浅はかで下らぬ夢想の欠片だろうか。
「サクリアがないせいなのか・・・。」
不意に、男が漏らした声は、おそらく、独り言だろう。炎にやっていた目を上げると、男はいつになくリラックスした様子で、緩く笑んでいた。やはり感じることは同じなのだなと、私は吐息を漏らすようにして笑った。
「不思議ですね。こんな、数刻後の運命も知れぬ身の上で、不思議と貴方と居て、安らいでいます。」
貴方もでしょう?と言外に込めて言うと、いつもの皮肉は返って来ず、
「ああ。」
と、男が答える。いつもの役者ぶった感じではなく、照れくさそうに肩を竦める様は、少年のようだった。
「なあ。」
炎に瞳を戻して、少し瞳を伏せて、男が声を掛ける。私は、薄い色の瞳が、炎を受けて揺らめくのを眺めながら、沈黙で先を促す。
「守護聖を、辞めたいと思ったことがあるか、と聞いたな。」
穏やかな声音は、昔話をする時のそれのようだ。
「ええ。」
「・・・辛いのか・・・。」
独り言のように、呟いて、それから、男はガシガシと右手を上げて、面倒臭そうに、頭を掻きやる。
「辛い・・・?・・・そうですね。」
私の返答に、訝しげにこちらに視線を戻した男に、少し笑んでみせると、素朴な問いが追いかけてきた。
「何が・・・?」
何が・・・?
「そうですね。意味が、分からないから・・・でしょうか。」
それほど近い距離ではないのに、何故か・・・、男の虹彩が、炎の揺らめきに合わせて揺れる様子が分かるようだった。私はそれをじっと見つめる。
「意味など・・・。分からないこと、ばかりだろうが。」
少し瞳を伏せて言って、男は唇を噛む。普段であれば、ただの悪態に過ぎないと思うであろう、その台詞は。けれども、男の苦しげな様子から、慰めの言葉として私の手元にやってきた。彼の優しさを素直に受け取っている常ではない自分に、ふふ、と苦笑してから、同意した。
「確かに。何故生まれ出でたのか、何故此処に居るのか。分からないこと、ばかりですね。」
「考えても、仕方が無いだろう・・・。・・・それに。」
「それに?」
思った通りの繰り返しの後、思いがけず続いた言葉に、私は先を促す。
「いつかは、終わる。」
私を見ているようで、その瞳は、私を通り越して、どこか遠くを見やっているようだった。彼の言葉は、まるで何かの誓言のように、私に響いた。何も答えない私に、男は遠い目をしたまま、言葉を付け加えた。
「俺は、意味などなくても構わない。意味がありそうなことを見つけて、ただ、するだけだ。」
黙って、ただ、その遠い瞳を見つめる私に、男は、川の中で見せた、仕方なさそうな笑みを再び顔に上らせ、ふっ、と軽く溜め息を吐いた。
「下らんことを言ったな。もう寝ろ。交代で番をしよう。数刻したら起こす。」
何かを言おうとして・・・、言葉が出ない。
ノロノロと私は丸太の前に移動し、丸まるようにして身体を横たえる。数歩の距離にある火の暖かさが身体を暖めてくれる。思った程、枯れ葉の寝床は寝にくくないようだ。
「オスカー。」
私は、目を瞑ってから、彼の名を呼んだ。
「なんだ。」
閉じた瞼の向こうで、緩く炎が踊っている。
彼の低く柔らかな声音に、胸が詰まるような感覚を覚えた・・・けれど、やはり、続く言葉が見当たらない。暫くの逡巡の後、結局、私は何かを告げることを諦めた。
「・・・いえ、何でもありません。」
「フッ。・・・さっさと寝ちまえ。」
いつかは・・・終わる?
意味のない、生に。意味のない、役割に。
些かの意味を見出して、いつか、終わりが訪れる時を待って・・・。
それで・・・・それで・・・?
やがて緩慢な思考の糸に絡めとられるように、私は眠りに落ちた。
【7.絶望との邂逅】
アハハハ・・・・
フッフフ・・・・
きらりきらりと、川の水を跳ね上げながら、睦まじく笑い合い、ふざけ合う、青年達の声・・・。・・・違う。アレは私と貴方ではない・・・。何か別の・・・。
そう、いつもの、・・・下らぬ夢想。
酷く悲しい気持ちが胸に満ちて来て、泣いてしまいたい想いに駆られる、やがてそれが堪え難くなった時に、
「・・・い。おい、リュミエール。」
耳慣れた声に呼ばれて、目が覚めた。不意に眠りに落ちる直前の記憶がしっかりと蘇り、現実感を取り戻す。緩慢な動きで、身体を起こしつつ、
「交代ですか?」
と寝起きの掠れた声で問うと。
「いや。すまん、気づくのが遅れた。」
大してすまないと思っていなそうな淡白な声音で、男が言うのに、私は周囲に獣の気配が差し迫っていることに遅れて気づいた。
「囲まれている。」
言いながら、男は私に既に手に馴染みつつある武器・・・木の棒を投げ渡して寄越す。私はそれを掴み取る。
「争いは、好まないのですが。」
と、もう何度口にしたか分からない主張をしてから、立ち上がり、それを構える。流石に、火の近くにはやって来にくいのか。周囲を見渡すと、光る目の数は多いが、すぐに襲ってくる様子はない。
私は丸太を避けて移動すると、背を火に向けて立つ男と同様に、火を背にして男の隣に立ち、男とは逆サイドに身体を向けて構える。まるで、私たちの準備が整うのを待っていた、とでも言うべきタイミングで、獣が二匹、私たちに襲いかかって来た。その頭を狙いを澄まして叩くと同時に、横から別の獣が襲いかかってくる。
ゴンッッ・・・・ジュワァ・・・
ゴッッッガッッッ・・・・ジュワァ・・・ジュワァ・・・
続けざまに攻撃を避ける、頭を叩く、腹を叩く。身体を開いたり閉じたりして、攻撃を繰り返す。次から次に黒い煙を上げては霧散する獣。ギャンギャンと、隣では私の倍の勢いで、獣に断末魔の叫びを上げさせているようだ。
そうして、一体、何匹撃退したのだろう・・・いや、何十匹・・・?攻撃が一度止んだ隙に、森の向こうで光る目の数を数えようとするが、数が減ったようには見えない。
「オスカー。貴方、私が寝ている間に、犬笛でも吹いたのですか。」
思わず悪態を付くと、
「生憎楽器はからきしでな。寧ろお前が寝ながら吹いたんじゃないか?」
男は構えを崩さず、悪態を返し、次の瞬間、飛び出して来た獣を片手の一撃でいなす。足元の棒を足を使って器用に蹴り上げると、それを左手で掴み取って、両刀の構えにすると、
「こちとら眠くて仕方が無い。サッサと終わらせるぞ。」
なぞと言い、ヒュゥ、とそれこそ犬笛でも吹くように、獣達を挑発する。
挑発に乗ってきた割には、何故か私に飛びかかって来た獣をパン、パン、とリズムよく二匹叩いて、構え直す。
「何事にも、終わりがあるそうですから、ねッッ!」
続いてオスカーに群がった4匹のうちの1匹を後ろから叩いて。私は貴方と違って体力自慢じゃないのですよ、と脳裏で『願わくば、途中でバテませんように』と祈った。
ハァ、ハァ、ハァ・・・・
息を上げる私に対し、男にはまだ体力に余裕があるようだ。既に腕は鉛のように重たい。獣の頭を叩く度に、反動で腕が痺れるようだった。
パン、パン、と二匹を叩き落とすが、もう一匹の爪が私に迫る。構え直すのが間に合わない。
しまっ・・・
「リュミエールッ!!」
焦燥の声が胸に過るのと同時に、ドン、と強く突き飛ばされて、反射的に目を瞑ってしまう。ガラン、と言う音は、おそらく男が持っていた木の棒の一つが地に落ちる音。慌てて目を開けると、目の前に、痛みに顔を顰める男の顔。私を庇うように男は敵に背を晒し、けれど一瞬の後、すぐに敵に向き直った。
ハッと息を呑む。
背に、大きな爪痕。服が避け、血が流れていた。が、男は、何故かいっそ嬉しげに、クックッ、と喉を詰まらせるようにして嗤った。
その様に、目を細める。
「お前、もう限界だな?少し下がっていろ。取りこぼしを頼む。」
私は、グゥ、と何か熱い感情が胸に立ち上るのを感じる。けれども、状況は私の情動に付き合う程、悠長なものではなかった。考える間も無く、取り落とされた木の棒に数歩で走り寄り、拾い上げる。闘いを楽しんでいるかのように、口の端を凶暴にめくり上げて敵に対峙する男に振り返り様に投げ渡して、
「そうさせてもらいます。」
と、無表情に答える。私は、燃え立つような感情を胸の底に押しやり、以後、男のサポートに徹した。
獣の気配が消え失せる頃には、すっかり夜が明けていて、辺りは早朝の爽やかな気配に包まれていた。
私とオスカーは、共にゼェハァと息を切らせており、爽やかさとは程遠く、だくだくと流れる汗に塗れていた。へたり込むように、地面に座り込んでしまった私は、棍棒で身体を支えるようにして立つオスカーを見上げる。
確かに、不眠不休とは思えぬ様子で最後まで戦い続けた男の体力は、伊達ではない。私の5倍で効くかどうかといった運動量に・・・私は内心で舌を巻く。
朝靄の中で、粗く息を吐く、汗に濡れた男。それはまた、別の画のようだった。自分の中で、慣れた感覚が沸き上って、それが収まるのを待つ。
「川に・・・入った意味が、なくなりましたね。もう一度、身体を洗ってから、貴方は・・・・、少し、仮眠を、取った方が・・・、いいのでは?」
と言う。傷を洗った方がいい。そうは思ったが、何故か口に出来ないでいた。男は前方の地面に落としていた視線を私にやり、ニヤリ、と持ち前の片側の口の端を上げる笑い方をすると、
「そうしよう。」
と返し、流石に少々の疲労を感じさせる足取りで、川に向かった。私は、なんとか立ち上がって、足を引きずるようにしてそれを追った。
再び川に共に入って、男の背の傷を洗う。
「自分で分かる。浅い。」
「ええ。もう血も止まっています。」
ザバザバと背に水を掛けてやる私に、
「浸かった方が早いんじゃなかったか・・・?」
苦笑混じりの声。
ほとんど誘われるように、ペタ、と私は、傷の側の肩甲骨に、右手をあてた。そのまま、其処に額を付ける。
いつもこの男から感じていた、自分が滅されてしまうのではないかという焦燥感も、緊張感も、私を襲わない。・・・だからだろうか。余計に、追い詰められている気がした。・・・自分の感情に。
泣いてしまいたいような気持ちだった。ふと、このまま、この男を強く抱きしめて、抱き殺してしまう夢想に思考を支配される。抗うように私の中で藻掻く男は、やがて力を失い、脱力する。私より逞しい体躯が無防備に私の腕に身を預ける。じわじわと、力強いアイスブルーが瞼に隠れ、私は安堵すると同時に、最も手に入れたかったものを失う・・・。
もっと側に、いや、もっと遠くに、という慣れた葛藤は、今はただ、側に、側に・・・。それだけの欲求になってしまって、それが私を余計に追い詰めている。
「・・・?何かのマジナイか?」
今度は、はっきりと苦笑されて、私は我に返る。
「いえ。」
固い声。ハッ、と男は嘲笑して、素早く身体ごと振り返り、肩甲骨にあてていた私の手を握った。まるで、幼子を嗜めるように。
「お前、そういうときは・・・。」
『嘘でも「痛みを取れたらと思って」等と言うもんだろ。』とでも続く予定だったのだろうか。彼の笑い顔は、やがて、私の目を見るなり、表情と続く言葉を失って、固まった。
私を見下ろす、ガラス玉の瞳は、やがて苦痛に耐えるように歪んだ。
「何故・・・。そんな目で見る。」
私の手を握っていた骨張った手が、ぎこちない動きで私のそれを解放する。その手が、彼の身体の脇で拳を作るのが、視界の端に映った。
そんな目で・・・?どんな目だと言うのだろう。
私は宙に浮いたままの手を、どうしてよいのか、途方に暮れる。途方に暮れたまま、漫然とガラス玉を見つめ、私は口を開いた。
「何故・・・?それは私の台詞です。」
どうして、貴方なのだろう。ぼんやりとした頼りない問いは、やがて、激情を伴ったものに変わる。
ーーーどうして。・・・どうして!!
私は彼と同じように、浮いた手を拳に変えて、彼の胸を叩いた。ほとんど彼の胸に顔を埋めるようにして、胸の痛みに耐えかね、目を瞑る。まるで泣いているように身体が震えた。けれど、涙は出ない。
男は、暫くそれを受け止めてから、
「痛ぇよ。」
些か遅過ぎる静かな抗議の声を上げた。それから、優しく私の拳を左手で包む。
「言いたいことがあるなら、口を使って言え。俺は闇の方じゃないんだ。」
その言に、私は瞳を開いて、男を見上げた。『ん?』と促すように、男は少々首を傾げる。
その様に。
ーーー欲しい。
とうとう胸中で形作られた絶望的な言葉に、私はガラス玉を見上げたまま、苦笑した。
「いえ。疲れているのでしょう?少し寝て下さい。」
空いた左手を、彼の手に更に重ね、やわりと、自分の手と共に下ろした。ガラス玉は、また苦痛に耐えるような色を見せた。それから、何かを振り払うように、男は瞳を伏せ、紅い髪を振った。
「そうだな。」
淡白な返事に、私は先に川を出た。
【8.海際の声】
共に水を払い、服を着て、大樹の下に戻る。大樹の下に戻るなり、男は地に寝転がろうとして、何かに逡巡したようだった。キョロキョロと辺りを見回し、昨夜皿代わりに使った葉を裏返し、枕代わりに地面に敷いたのを見て、ああ、頭髪が濡れているからか、と思い至る。存外、育ちが良いのだ、この男は・・・等と思う。
ごろりと背の傷を庇って、腕を組むような姿勢で横に寝転がるオスカーを、丸太に座ってぼんやりと眺める。寝転がってすぐに、男はさっさと寝息を立て始めた。よほど疲れていたのか、あるいは、寝付きがいいのか・・・。きっと両方か、と私は苦笑してそれを見送る。『強さの守護聖』に選ばれるだけあり、私と違って、男は機能的に出来ているのかも知れない。『優しさの守護聖』等と言う、曖昧な立場の私は、自分の情動に振り回されるばかりだというのに。・・・酷く自虐的になっている思考を、頭を小さく振って追いやる。
瞼に瞳が隠れてしまうと、濡れた髪をオールバックにしているにも関わらず、どこか男は幼い印象だ。先ほどの夢想と重なってしまい、また頭を振る。
ふと、気を紛らわす為に何か奏でたい気分になって・・・、こんな時に、楽器が無い等と不満を過らせるとは、我ながらどうかしている・・・、と自嘲する。
けれども、一度思うと、寝顔を眺めながら、眠りが深く、心地良いものになるような音楽・・・と、知らず思いを巡らせてしまう。結局、邪魔だろうか、と思いつつも、小さく穏やかな旋律の鼻歌を歌うことにした。
獣がやってきたら、彼を起こそうと思っていたが、数刻を待たず、パチリと男は目を覚ました。むくり、と身体を起こして、数秒、ぼーっと前方を眺め、
「・・・何か、歌っていたか・・・?」
と、そのままの姿勢で聞く。焦点を失ったような瞳だけが、やがて、こちらに向けられた。どきり、と胸が鳴る。・・・一体何に驚いているのか、自分でも判然とせず訝しむ。覚束ぬ、まるで子供のような彼の様子に?それとも、鼻歌を咎められたことに・・・?私は、自分の驚きを無視して、少し嗤った。
「すみません。邪魔でしたか?」
「いや・・・?」
短い応答に、ほっと胸を撫で下ろしながら、
「もう、良いのですか?」
問うと、
「ああ。行こう。」
と、男は、まるですっかり回復したような顔つきと動きで、立ち上がって言った。
また、獣と戦いながら更に半日ほど進むと、不意に海の香りがしてきて、顔を上げる。男も気づいたようで、同意するように、顎を引いた。香りの方角に歩を進めると、程なく、洞窟からずっと続いていた森が途切れ、急に景色が開けた。狭い砂浜に出た。その先は予想通りの海が続き、その先には何も無く、ただ水平線とのっぺりとした雲のない青空、太陽があった。左手を見やると、緩くカーブするように続く狭い幅の砂浜、それを囲うように森があり、海岸線の先に、海に突き出すようにしている岬があった。岬の上には、灯台のような、それにしては、些か太りすぎているような、円筒状の白い建造物が立っている。此処に来てから、ヒトには出会えていないが、此処にも人間・・・あるいは、知性のある何者かが居て、文明があるのだろうか。見つめる私に気づいたのか、
「あれくらいの建造物を造れる知性のある動物が居るのか。・・・あるいは、『居た』のかだな。」
と、男も隣に立ち、手を翳して目を細める。彼の薄い色の瞳には、些か陽光が強すぎるのかも知れない。彼の言に、目を凝らすが、この距離では、あの建造物の老朽化の度合いは測れない。
「見通しもいいし、ここからは海岸を進むか。物陰から襲われる心配がないだけで、随分疲れが違うだろう。方角的には、あの岬を目指すのでいいだろうし。」
彼の言い分は、嬉しいものではあるが、少し心配なものでもある。
「私は嬉しいですが。サングラスなしで大丈夫ですか?」
「ここの太陽はそれほど光が強くない。大丈夫だろう・・・。それより・・・。」
何事か言いかけて黙ってしまった彼の言葉の続きを、「それより?」と催促するが、
「いや・・・。関係ないと思う・・・んだがな。」
はっきりしない。首を傾げて見上げる私を、困ったように笑んだ顔で見下ろしてから、
「いや。とにかく進むぞ。」
男は歩み出した。
ひたすら休まず歩み続け、夕暮れ前には、件の塔の前にたどり着いた。昨夜の闘いがまだ尾を引いているのか、長時間歩く事には慣れているはずが、私の足はぐったりと疲れ切っていた。近くの岩に腰掛けて、ぎゅ、ぎゅ、と足を揉む。その横に、オスカーも腰掛けて、トントンと、自分の腿やふくらはぎを叩いた。
塔は、海風に晒されながらも、朽ちている訳ではなかった。塔の前に、鉄製のような黒い柵の門がある。錠はされていない。明らかに、簡素な造りではあるが、人為的な建造物。
少し休んでから、
「では、行ってみますか。」
と、声を掛けて腰を上げると、
「ああ。」
と短く返って、男も立ち上がる。黒い柵の門を押して開き、中に入る。随分、大きな建造物だった。千人は集客できる・・・これは・・・。
「コロキウム・・・か・・・?」
白く漆喰のような素材で出来ている円形上の建物は、扉の無い、馬車が通れる程の入り口が開いており、そこを抜けると、広場となっていた。
広い。
そして、その広場を円形に囲む、人が登る為に設計されたのであれば、些か大き過ぎる巨人用の階段とでも言うべき段が、塔の壁となっている。丸く開かれた天井は青空。オスカーの言うように、コロキウムなのだろう。
けれど、こんなところに、何故・・・?
暫し二人して呆然と立ち尽くし、やがて中央に向かって歩み始めたオスカーに続く。歩むうちに、不意にザワザワと、喧噪が耳に聞こえた気がして、顔を上げる。いつの間にかオスカーも立ち止まっていた。
周囲を見やるが、当然、誰もいない。
「空耳・・・?」
訝しむように独りごちて、オスカーが振り返る。何事か、オスカーの口が動くのに、声が聞こえない。代わりに、喧噪が、ワァワァと耐えられないくらいの大きな声になって、私を襲った。
「??・・・聞こえなッッ!」
喧噪に負けぬよう大声を張り上げるが、彼に届いた気配はない。両肩に彼の腕が伸びて、身体を揺さぶられる。彼の口の動きとは、全く関係のない、けれども、確かに彼の声が、堪え難い程大きくなった喧噪を打ち消すような、大きな声で私の胸に直接届いた。
『いつまでも、こうして・・・お前と戦っていたい!』
【9.穏やかな空気】
いつになく、不機嫌だな・・・。何があったのか・・・。
皇子の衣装は常の黒い詰め襟で、ご自身の意向で最低限には押さえられているものの、それでも庶民には目が眩む程、金銀の刺繍や宝石で、意匠を凝らされたもの。肩口がふんわりとしている他は、身体にフィットしたデザインで、すらりとした彼の長身を引き立てていた。
私は窓辺に立ち、忌々しげに外に視線を投げるクラヴィス様の様子をほとんど条件反射のように観察する。
「殿下・・・?」
私の呼声に、
「殿下は止せと言っているだろう。」
外を睨んだまま、苛立ちを隠さない声音で嗜められる。
「クラヴィス様。」
私は呼び変えただけだが、クラヴィス様は、私の声に、自分の苛立ちにたった気づいた、とでも言うかのように、ハッと、私に視線を戻し、眉根を寄せると、
「すまぬ。・・・父上のことでな。」
と、漏らした。では、睨んでいた先は、陛下の部屋か・・・と、宮廷の位置関係を頭に巡らせて確認する。
「何か・・・ございましたか。」
直立の姿勢のままに問えば、
「お前に、決闘をさせよ、等と言う・・・。」
思わず、目を開いて、パチ、パチ、と二度瞳を瞬かせる。
「私は反対しているのだが・・・。・・・聞かぬ。」
ふぅ、と息をついて、彼は執務机に付けられた、その身分に相応しい豪奢な椅子に腰を下ろした。人払いは済んでいるものの、これから話す内容を思い、小声で話しても聞こえる距離に距離を詰める。
「それにしても、決闘とは・・・。『一の騎士』同士で、ということでしょうか。」
「相変わらず察しの良いことだ。」
揶揄するような響きが含まれているのは、気のせいではないだろう。私は小さく苦笑を漏らしながら、
「何故です?」
と、身分に相応しくない、単刀直入のいつもの問いかけ方で接する。クラヴィス様がこのようなやり取りを好むせいか、それとも軍人に凡そ似つかわしくない私の怠惰のせいか、二人になると、いつもこの調子だった。
彼は、ふっ、と心地よさそうに鼻を鳴らしてから、小さくやれやれと首を振って応える。
「また開戦の話になってな。いつものように、私は開戦に断固として反対である旨を主張する羽目になる訳だが。」
「ええ。」
「それならば・・・というのだ。」
「・・・とおっしゃいますと?」
クラヴィス様は、もう一度、顔を顰めた。おそらく、私の言にではなく、ご自身の話す内容を思って、だろう。
「・・・開戦せぬならば、何か他の方法でもって争おう、と。歴史を紐解くと、過去にも『一の騎士』の決闘によって、領土の争いをした事例があるとか。」
如何にも下らない、といった様子で、彼はクッ、と鼻頭に皺を寄せて、嘲笑した。
「詰まらぬ知恵を吹き込みおって・・・。あの、元老のジジイめッ・・・。」
忌々しげに吐き捨てられる。なるほど、腹違いの弟君と争わずには居られぬ陛下に、争いの方法を吹き込んだ輩は元老の筆頭のアレか・・・。チラと顔を思い浮かべ、さもありなん、と息を吐く。
「死ぬな。」
短く、淡白な命令。けれども、私を見つめるアメジストには、乞うような色が滲んでいる。これを向けられて、自惚れてしまうのが、私の悪い癖だ・・・分かっていながら、やはり口から出たのはいつもの減らず口だった。
「貴方が、死んでも良いと、仰せになるまでは。」
さらりと、無責任な言葉を口にして、にこりと、主を見やる。
皇子殿下は眉を顰めた。
「ならば、お前は私が死ぬまで死ねぬ。」
「では、そのように。」
私の言い様に、ますます眉が寄り、
「だからお前は信用ならぬというのだ。」
瞳が伏せられ、やがて、はぁ、と深刻な溜め息が続いた。私は、それが彼の本音でないことを知っている。態とらしく、おや?と片眉を上げてみせ、
「しかし、私の記憶では、私がクラヴィス様の命に背いたことはなかったかと。」
ふむ、と考え込む振りをしてみせると、耐えきれなかった、というように、ふっ、と鼻頭に皺を寄せ、吹き出すようにして、
「もう良い。」
と肩から力を抜くようにして言う。そして、瞳に力を込めて机越しに直立する私を見上げる。
「違えるなよ。」
「はっ。」
強い視線を受け止めてから、目的語を伏せた命に、私は畏まって礼を取る。対立する二つの帝国の狭間で、束の間、主の部屋は時代に沿ぐわぬ穏やかな空気に包まれていた。
【10.二振りの剣】
決闘の日。
コロキウムにある控え室で装備の点検をする。剣の状態を確認しながら、ふと、この剣を賜った時のやり取りを思い出した。
確か、それは、二人きりの修練場。
『これは・・・。』
騎士が持つには豪奢に過ぎるその造作に見惚れながら、けれども奇妙な既視感に見舞われた。
ふ、と吐息を漏らすような小さな笑い声。
『気に入ったか?』
『・・・。』
『・・・?どうした?』
『あ、いえ。どこか、懐かしく、感じて・・・。』
思わず漏らした感想に、
『お前の為に誂え、たった今出来上がった剣だぞ?』
笑いを含む、穏やかな声音。
『・・・おかしなやつだ。』
私は、ええ・・・、と、それに笑んで応えながら、美しいその姿に視線を戻し、胸の高さでその鞘をゆっくりと抜き、切っ先を光に翳した。
その時、胸に迫って来たのは、なんだっただろうか。懐かしさ、切なさ、高鳴り、あるいは・・・哀しみ?
何処かに置き忘れて来た、自分の一部が、やっと手元に帰って来たような。けれどもそれは、もう二度と、手元に返って来ては、いけないものだった、ような・・・?
だが、剣を持って立つ私の姿への、満足気な主の笑みに、私は、その時感じた感情の揺らめきを、瞳を伏せ、曖昧に笑んで、流しやった。
思い出を苦笑と共に見送って、刃を鞘に戻し、一度、握りから柄頭にかけての装飾を、嵌め込まれた蒼い玉を、優しく撫ぜる。
『お前は、何処から来たのです・・・?そして、何処へ行く・・・?』
やがて、胸中に奇妙な問いが形作られると同時に、コン、と気のないノックの音が響いた。
ほとんど瞬間的に、主の来訪を直感する。扉を開けると、案の定、従者を伴わぬ主がそこに居た。
「不用心に過ぎます。」
心配に、思わず眉根が寄ってしまう・・・が、主には、倍返しの盛大さで眉を顰められた上、
「コロキウムの出場者用の通路は、最も手厚く警備されているのだぞ?」
と腕を組まれた。まあ確かに、装備等への細工が施される可能性を排除しようとすれば、これほどの死合いならば、厳重にもなろうか、と少々納得する。主を部屋に招き入れてから、扉をしっかりと閉める。
「どうされ・・・」
ました?という続きは、主の真剣過ぎる眼差しと、いくら仕えている期間が長いとは言え、近過ぎる距離、そして、私の頬に優しく当てられた指先への驚きで、口の中で、吐息と共に飲み込むに終わる。
アメジストは、泣き出してしまうのではないだろうか、と思う程に、痛切な色で、私を至近距離から見下ろしていた。
「違えるな、よ。」
慰めなければと瞬間的に思って、けれども、何をすればそれが達成できるのか分からない。私は、ただ、アメジストを見返す。
ゆるりと、アメジストは伏せられた睫毛にその姿を半分程隠した。
「・・・ジュリアスと、この私が争う等・・・。」
私と、大帝国の『一の騎士』の争いは、すなわち、真帝国と大帝国の争いであり、それはそのまま、大帝国の皇子とクラヴィス様の争いである、という意味だろう。私は、自分の知らぬクラヴィス様と大帝国皇子の関係を、その伏せられた視線から読み取ろうとするかのように、じっと見つめた。
幼馴染みの友だという、敵国の皇子への懐かしさや、その関係へのやるせなさ等が其処にある気がして。しばしば『氷の男』等と親衛隊内でも揶揄され、友を持たぬ自分では、おそらく、そのお気持ちを慰めることはできまい、と内心で自嘲する。
頬に触れていた優しい指先が、少しの逡巡の後、やがて離れる。
私は、触れられていた頬に、自ら指先を代わりに絡めてから、自分の身を緩く抱いて、瞳を伏せて笑った。
「さて、私は勝てばよいのでしょうか・・・。それとも?」
片眉を上げ、視線を主に戻す。主は、ぎゅ、と眉根を寄せ、渋く瞳を眇めるようにして応えた。
「言ったであろう。私の命は、ただ一つだ。」
『・・・死ぬな。』
『約束を、違えるな。』
私は、アメジストの瞳を見つめながら、確かに心の耳で、その命をもう一度聞き、声を伴って、笑った。
「では、そのように。」
主は、やはり渋い顔のまま、私を見やり、片方の拳を握りしめて、踵を返して部屋を出た。
何故だろう。主の命は重く、私にそれを約束する自信などないのに。けれども、そう言わなければ、ならない気がして。
それで・・・。
どさり、と剣を見やりながら、簡素な木の椅子に腰を下ろす。脱力するように、両手を落として、天を仰いで。
とても闘う気分ではない。けれども、いつでもそうだった。
いつでも争う気持ちなど無いのに、何故か・・・。『その場』に身を置けば、ただ、生き残ってしまう。
主の、望むままに。
「いつか、裏切る時が来るのだろうか・・・。」
瞼をキツく瞑って、主の両のアメジストを瞼の裏に描く。長い髪を掻きやって、深く溜め息をつく。カドカンで髪を括り、剣を手に取る。
慣れた重み。手に馴染むグリップ。
すらりと鞘から刀身を抜けば、特別な鋼で作られたというこの剣特有の、鈍い光。
「勝てないまでも、生き残らねばならない。」
唇に鍔を寄せた。
***
ワァァ・・・・・ァァァァ・・・・・
競技場に出ると、突然の光量に瞳が焼かれる。コロキウムを埋め尽くす、人、人、人・・・。そして歓声。ある者は立ち、ある者は座り、ある者は鮮やかな青又は赤の布を振る。丁度、コロキウムの上辺に、対面するように設置された互いの皇帝の席を区切りとするように、向かって右に赤い布を振る人々、向かって左に青の布を振る人々が犇めき合っている。
正面、上方に設置された大帝国の皇帝席には、初めて見る、敵国の皇帝と皇子の姿。あれが、件の『ジュリアス』様か。輝く豪奢な金髪は、まるで主と印象が異なっている。いや、正反対というのが正しい。
中央に向かって歩むと、やがて、大帝国の皇帝席の真下にある出入り口から、白銀の鎧を身に着けた、紅い髪の男が姿を見せた。
とくん・・・。
目がしっかりと合った瞬間、胸の鼓動が、音を変える。それこそ、まるで自分と正反対の印象の男。何か、眩しいものを見たように、思わず瞳を半分程閉じる。
だが、どこかで・・・。どこかで・・・会ったことがある・・・?
・・・何を、馬鹿な。
中央で歩みを止め、男を待つ。男は、剣身の二倍の距離を保ち、立ち止まった。近づいてみると、その鮮烈な髪の色の印象は薄れ、寧ろ、薄蒼い瞳の鋭さが目立った。男は、暫く訝しむように、瞳を眇めて私を眺めた後、ふと、瞳から力を抜いて笑んだ。
「俺は、大帝国『一の騎士』、オスカー。」
やや唐突な名乗り。深く甘い声音。聞き覚えが、あるはずがない。あるはずが。
ガチャリ、と所作に応じて彼の白銀の鎧が、重たい音を立てる。肩幅程に開かれた両足で、自然な感じでまっすぐに立つ男は、柄頭に右手を乗せた。相手が礼を取らないのに、礼を取ることはできない。私も、がちゃ、と鎧を鳴らしながら、柄頭に手を乗せ、同じようにまっすぐと立ち、
「私は、真帝国『一の騎士』、リュミエール。」
倣うように短く名乗った。私に彼のような余裕はない。笑む事など到底できず、無表情のままに。
私は、なんとなく、自分の主を振り返った。振り仰いだ先の主は、距離があり、表情など窺い知れない程に、小さい。長い彼のシンボルのような黒髪が、辛うじて彼がそこに確かに居ることを判別可能にするだけ。けれども、確かに、もう一度『死ぬな』と、その唇が音無く声を発した気がして。私は剣を抜き、鍔に唇を落とす。
そのまま、振り返って構えた。男も、呼応するように、剣を抜き、構える。
審判はいない。ただ、試合開始の喇叭が鳴った。
その音に、周囲の喧噪が遠く霞み、脳がすっと温度を下げ、覚醒する気配を感じる。自然、闘技場の自分と男を取り巻くスペース以外が、意識の外に追いやられる。中段に構えながら、じり、じり、と間合いを測りながら距離を詰める。
相手の剣身の方が長く、まるで両手剣のように、厚い。
仕掛けたのは、相手が先だった。
一気に間合いを詰め、中段から剣の重さを遠心力で振り回すような軌道で真上に持ち上げ、そのままこちらに向かって振り下ろされる。
『早い!』
その体躯に似合わぬ俊敏な動きに驚きを覚えながら、それを両手で受け止める。分の悪い鍔競り合いになり、瞳が間近に絡む。
私を見下ろすのは、薄い色の、ガラス玉のような瞳。そこには、怒りも、哀しみも、喜びも読み取れない。ただ、機械的に目の前の敵に対峙している時のそれのようだった。
その淡白な瞳に、試合の時には感じた事の無い、奇妙に暖かい、鼓動の音が、また。
とくん・・・。
彼の左手が、加勢する前に、一度剣を僅かに引く素振りで、剣を跳ね返す。
『重い・・・。』
そのまま、勢いで二合、三合と打ち込む。
キィン、キィン、と互いの剣が弾き合う音に、感じた事の無い感覚に襲われる。まるで、互いに相手の次の手を、分かっていて、態とそれに合わせているような。
突然、男が後ろに二つ飛び、私から距離を取る。何故距離を取るのか、意図が分からない。彼の方が、力もあり、スピードはほぼ互角。剣が軽い分、やや私の方が速いかも知れないが、勝負に影響するものとは思えない。
訝しむような視線を投げると、男は、眉を顰めた。
「お前・・・。どこかで・・・会ったことが?」
呟くような声は、風に流されて、ほとんど聞き取れない。けれども、はっきりと『聞こえた』。突然、心臓を掴まれたような気がした。
「な・・・にを・・・。ばかな・・・。」
驚愕を押し込めて、なんとか唇を動かし、自分の既視感と、彼の台詞を否定する。
知っている・・・?この男を・・・知っている・・・?何故・・・?
私は耐えかねて、自分から突っ込んだ。相手をする男の剣運びは、やはりどこか互いに呼吸を合わせているようで、余計に焦りが募る。
拮抗するスピード。いなされる剣、いなす剣。リズム良く、打ち合う切っ先が、不規則に放つ火花。
また、不意に男が距離を取った。
「ふっ・・・。はは・・・。」
試合に不似合いな、笑い声。
「面白いな・・・。」
何かを懐かしむように、男は瞳をやや伏し目がちにして、呟く。柔らかな笑顔。聞こえるはずが無い。聞こえるはずが。
「いつまでも・・・打ち合っていたい気分だ・・・。」
続けられた言葉に、私は、ほとんど自失した。
「出会ったのが・・・ここでなければ・・・。」
自分の唇から漏れた言葉に、余計に戸惑う。ここでなければ、なんだというのだ。けれども、私の言葉も、やはり男に届いたというのだろうか。男は、瞳を見開いて、それから、何かの痛みに耐えるように、眉を寄せた。
数秒の沈黙で、全て、語りたい事を語り尽くしたような気持ちになり、どこか、諦めに似た気持ちが胸に満ちる。
ヒュ、と互いの息を呑む音は、同時。
『いつまでも、こうして・・・お前と戦っていたい!』
『出会ったのが、ここでなければ!』
ほとんど無意識に間合いが詰まる。
瞬間、誰かの声が聞こえた。
『オスカーッッ!!』
『リュミエールッッ!!』
彼の瞳の輝きが、まるで軌跡のように、網膜に焼き付けられた。
彼は私の左肩を狙う大振り。私はそれを避けず、ただ、彼の左肩に剣身を素早く下ろした。まるで、図ったような相打ちに、思わず狂ったように嗤い声を上げたくなった。
不意に結界が解けたように、耳に入って来た喧噪は、やがて、水を打ったような静寂に変わる。
意志と無関係に、膝が落ち、身体が前に倒れる。ガチャ、ドサ、という音は、私の身体が地面に落ちる音だろうか、それとも、彼の・・・?
不意に、束の間忘れていた、主の命を思い出す。
ああ、私はなんということを。
なんという・・・ことを・・・。
薄れる意識の中、主を慰めるように腕を上げようとして、それが叶わない。ただ、聞こえるはずの無い、主の悲痛な声音が、暗闇に響いた。
『許さぬ!!許さぬッッ!!よくもリュミエールを!!』
【11.誰かの声】
・・・夢・・・?
倦怠感の中、私はゆっくりと自我を取り戻す。けれども、視界は一面の暗闇。
「・・・ここは・・・?」
誰にともなく発された自らの問いに、暗闇が応えた。
「気がついたか。」
聞き慣れた男の声。やがて、ぼう、と視界の先に、まるでスポットのように一筋の光が落ち、そこに一人の男の姿が現れる。見慣れた男は、けれども、休日にたまに見かけるような、前時代的な白い布の装束。
見慣れているはずのガラス玉は、銀色に虹彩が輝いていて、どこか化け物地味ている。見慣れぬ、固く表情の抜け落ちたような顔つき。
「貴方、は・・・?」
重たい唇を動かして問う。
「俺は炎のサクリア。」
男は、クッと喉を詰まらせて嗤った。まるで自分を飲み込まれてしまうような、悪寒を覚えて、とっさに身を抱こうとして・・・それが叶わない。ガチャ、と金属の音を聞いて、自分が拘束されていることを知る。背後の岩に、やや身体を斜め前に向けられ、胸と顎を突き出すようにして、私は拘束されていた。肩を後ろに戒められていることに気づいて、急に肩が抜けてしまいそうな痛みを覚え、顔を顰めた。
「知っている・・・。」
男は、右手で緩く自分を抱き、左手の先で自らの尖った顎を撫でた。
『知っている・・・?何を・・・?』
胸中の問いは、唇に登る前に、男によって解消された。ニヤリ、といつものニヒルな笑み方とは似て非なる、悪意に満ちた笑みを見せて、
「お前の、望みを。」
と笑みを含んだ深い声で言う。鳥肌が止まらない。喉に切っ先を当てられているような、緊張感に、ごくりとなんとか唾を飲む。
「お前の・・・浅はかな、夢想を、叶えてやろう。」
男は、すいと、音をさせずに私の目の前に寄った。鼻の先が触れる距離で、私を見つめる、銀色に輝く瞳。それが、半分程、瞼に隠れて。男は唇を私の唇にゆっくりと当てた。
私はただ、それがゆっくりと離れ、やがてまた私の顔の正面に、男の顔が戻るのを、ただ見つめ返すことしか出来ない。
私の耳から前にだらりと流れていた髪を、男は右手でくしゃりと潰しながら、こめかみの辺りまで掻きあげる。
「サクリアなど、要らんのだろう?」
うっとりと呟く声は、悪寒を誘って仕方が無いのに、甘く、抗いがたいもので。
クックック、と男は楽しくて仕方が無い、といった様子で笑い、鼻頭に皺を寄せる。
「ならば、お前から、それを、取り上げてやろう?」
「取り・・・あげ、・・・て・・・。」
取り上げてくれるというのか。この重たい荷物を。・・・お前が・・・?
男は私の言葉にならぬ気持ちを肯定するように、うっとりとまた目を細めた。髪に絡み付くような右手が、ゆるりと後頭部に回される。左手が、骨張って長い指先が、私の頬をやんわりと撫でる。
浅はかな、夢想。
この優しい手つきは、私がいつか、求めたものだったろうか。頭がぼんやりとして、判然としない。
『オスカー!!』
脳裏で、誰かの悲痛な叫び声。何がそんなに哀しい・・・?一体、何が・・・。
『いつまでも、こうして・・・お前と戦っていたい!』
ああ、ああ、いつだったか・・・。いつか、私もそう感じて・・・。
『出会ったのが、ここでなければ!』
五月蝿い、五月蝿い・・・。
誰の・・・。声・・・が。
『許さぬ!!許さぬッッ!!よくもリュミエールを!!』
『オスカーッッ!!クラヴィス、貴様ッッ!!貴様が・・・!!』
アメジストが、紺碧色の瞳が、憎しみに煙る。
まるで、最初から、憎しみあっていたように。
私と、貴方のように・・・。
オスカー・・・。
ねっとりと甘い舌先の愛撫の感触。私は銀色の強い光から逃れるように瞼を瞑り。
やがて、自我が解けた。
【12.同期する覚醒】
キィン、キィン、キィン・・・・
リズム良く繰り出される剣に、呼応するように剣が舞う。おかしい。相手に良いようにリズムを作られている。・・・なのに、それが・・・良いように相手をさせられている、この感じ、・・・が。
思わず、唇の端が上がってしまう。
『・・・心地いい・・・。』
内心で閃いた台詞に、自分で驚く。何を、馬鹿な・・・。両帝国の命運を分けるといっても過言じゃない、この試合で、訳の分からぬことを・・・。自戒しながらも、けれど、違和感が拭えない。
二段後ろに飛んで、距離を取る。不謹慎にも、勿体ない気がした。これで、終わってしまうのが。対峙する相手は、俺の意図を図りかねる、といった様子で、濃い藍色の瞳を眇めるようにして、構え直す。
『意図が分からないのは、俺も同じだ』とムッと八つ当たりを返したくなり、眉が寄る。・・・そして、この感情が、その瞳とのやり取りが、慣れ親しんだもののように感じて、ますます困惑する。
「お前・・・。どこかで・・・会ったことが?」
思わず唇から漏れ出た言葉に、内心で、『何を言ってる』と自分で突っ込む。なのに、男は驚愕したように瞳を見開き、見開いたままに、
「な・・・にを・・・。ばかな・・・。」
と呟いた。周囲の喧噪と風に、その声が俺に聞こえるはずは無い。
なのに何故。否定されているのに、肯定されたように感じるのだろう。俺は、コイツに会ったことがある?だが、どこで?いつ・・・?
膨れ上がった疑惑に身が包まれようとして、間合いを詰めてくる男の動きに、我に返る。再び、一合二合と剣が搗ち合う。また、奇妙な喜悦に全身が包まれる。
やがて堪えかねて、俺はまた間合いを取った。
思わず、笑いが漏れる。
「ふっ・・・。はは・・・。面白いな・・・。」
何か懐かしいような気持ちになって、俺はやや瞳を伏せる。目の前に佇む男は、黒い鎧と対照的な、ほとんど白銀といっていい色の薄い髪。陽光を受けて、やや水色がかって見える。そして、騎士にしては繊細にすぎる陶器のような肌。ジュリアス様とは違った意味で、人間離れしている。
けれど、俺は知っている。
この男は、誰より近寄りがたくて、けれども、誰より人間らしい男なのだと。
何故だ?と思うことも、もう出来ない程、俺は確信していた。
ーーー俺は、この男を、よく知っている。
「いつまでも・・・打ち合っていたい気分だ・・・。」
もし、出会ったのが、ここでなければ、あるいは、この知己の感覚を、分かち合うことも出来たのだろうか。まるで、長く連れ添った友のように・・・?
「出会ったのが・・・ここでなければ・・・。」
まるで俺の声を読み取ったような台詞。男の顔は、悔恨の極みといったそれで。およそ、その物語の中にしか存在しない騎士のような、現実味のない男の造形に合わない。
『お前は・・・。どうして、いつもそう・・・。』
胸で呟くのは、誰の声だ。・・・俺の声?
数秒の沈黙に、俺は遠く、そして長く、すれ違ってしまった誰かを思った。
ヒュ、と互いの息を呑む音は、同時。
互いの視線は、温度を失う。
眇められた無機質な瑠璃色の視線は、それだけで身を切られるようだ。
『いつまでも、こうして・・・お前と戦っていたい!』
『出会ったのが、ここでなければ!』
ほとんど無意識に間合いが詰まる。
その時。
『オスカーッッ!!』
『リュミエールッッ!!』
脳を突き刺すような悲鳴は、俺とリュミエールの声。
俺とリュミエール??
『許さぬ!!許さぬッッ!!よくもリュミエールを!!』
『オスカーッッ!!クラヴィス、貴様ッッ!!貴様が・・・!!』
そうだ、そう・・・。
リュミエール。
いつだって、声をかけてやりたかった。抱きしめてやれば、何か変わったのだろうか。その疎外感に居たたまれないとでも言うような、酷く痛々しい瞳に。
俺は、何をすれば・・・良かったのだろう・・・。
何を言ってやれば・・・。
「では、消えてくれるか・・・?」
リュミエールの固い声音。・・・違う、リュミエールは、こんなに固く低い声など出さない。けれども確かに・・・。
「そう思うのならば、私に委ねてくれぬか・・・?」
突然身を包む、暖かな抱擁。グラグラと纏まらない思考を喜ぶように、やんわりと唇を吸われる。
「・・・ん・・・。」
自我を柔らかに取り上げるように、ぬるりと舌が押し入ってくる。打ち合っていたときのような喜悦が、全身を包んで、身体が痺れる。背を腕一本で抱きとめられる感覚。脱力する四肢。薄く目を開けると、前髪を掻き上げる、優しく白い指先。
心地よさに誘われるように、とろりと再び目を閉じる。瞼の裏に映る、リュミエールのようで、リュミエールでない男は、リュミエールではあり得ない悪辣な笑みを見せた。
けれど、それはどこか深い哀しみと絶望を纏っている。
まるでリュミエールのそれと、同じように。
「・・・りゅ、みえ・・・る・・・。」
キスの合間になんとか名を呼んで、俺は痺れているような腕を必死で上げ、リュミエールの髪を撫でる。その孤独と絶望を慰めるように。ビク、と俺を抱くリュミエールの腕が身体が跳ねた気がして。俺は重たい瞼を薄く開ける。そこに、驚愕に見開かれたリュミエールの瞳があった。それは蒼く内側から輝いていて・・・・。
『水の・・・・さくり、あ・・・?』
漫然とした思考の中、不意に、いつだかの男を思い出す。そうだ、あの・・・暗闇で出会った・・・。
『お前に・・・できるだろうか・・・。』
できる・・・?何が・・・?
緩慢な思考を追いきれない。痛みに耐えるように、男の美しい藍色が、歪んだ。泣き出す直前の子供のように。
それで、俺は不意に覚醒する。
『守護聖を、辞めてしまいたいと思ったことは・・・?』
痺れた腕を全力で伸ばし、目の前の男を下から掻き抱いて力一杯引き寄せる。男のそれにしては頼りなく、けれども女性のそれとは全く違う身体。
確かな感覚に、今一度、力を込めて抱く。
何をどうすればいいのかなんて、分からない。
分からなくても。
出会ったのが、ここでなければ?
お前が、お前でなかったら?
そんなことは、もういいんだ・・・。
どうせ、いつかは終わるのだから。
在りたいように、在れば良い。
今度こそ。
俺も・・・。お前も・・・。
「オスカー・・・?」
ふと、胸の中で、今度こそ、聞き慣れた男の声がする。俺は、安心したように、腕から力を抜く。男は、少し身体を起こして、俺を抱きとめたまま、上から見下ろした。
夢から覚めるように、周囲の風景が急に鮮明になる。俺達を取り巻くのは、例のコロキウム。男の頭の上に広がるのっぺりとした青空。そして俺を見下ろす、周囲から抜き出るように白く、現実味に欠ける・・・けれど、人間臭い表情の男。
「リュミエール・・・。」
瞳から奇妙な輝きを失い、我に返ったような男の様子に、俺は思わず笑む。
「何が、おかしいのです?」
眉を寄せて、不本意そうに呟く男は、見慣れたそれだ。俺は、怠い腕を動かして、男の、サラサラと纏まらぬ錦紗の髪を両手で掻きあげてやった。
「なあ。もう、いいだろ?」
なあ。もう、随分長いこと、俺達は、すれ違ったから。
だから・・・。
また、くしゃりと表情が歪む。泣き出しそうな子供の瞳。
「・・・ええ。」
極まったような男の肯定は、安堵に閉じてしまった俺の瞼に、暖かなものを落とした。
【13.対のサクリア】
深海を思わせるような、頼りない照明に浮かぶ、黒い天井。白檀の香り。俺は目を瞬く。・・・クラヴィス様の・・・私邸・・・?
「オスカー・・・。」
安心したような深い声と溜め息に、重たい頭をそちらに向ける。黄金の髪、群青色の瞳の、寝起きには、頼りない明かりの中でもなお眩し過ぎる、ジュリアス様だった。ベッドに寝る俺の側で、椅子に座って俺の顔を覗き込んでいる。俺は眩しさを軽減するように目を細め、そしてほっと息を吐いて笑む。けれど、やや憔悴したようなジュリアス様の様子に気づいて、眉を寄せる。
「お・・・れ・・・は?」
「三日程、意識が戻らなかったのだ。視察先の遺跡で倒れてな。」
ぎゅ、と羽布団の中の俺の手にジュリアス様の手が重ねられ、握られる。それを緩く握り返す。三日、という数字に俺はジュリアス様の憔悴した様子を重ねてドキリとする。執務がある。まさか寝ずに看病して下さったということはないだろうが。
それから説明の内容に思い至り、ああ、視察先の遺跡・・・と俺は脳裏で風景を思い描く。洞窟の中にあった、九つの岩。そして、海と、砂浜。遠くに霞む、コロキウム。黒衣の、白銀の髪、瑠璃色の瞳の騎士。
「リュミ、エールは・・・どう・・・?」
「安心せよ。お前より少し前に目覚めた。まだ起き上がれる状態ではないが、容態は安定している。少しリュミエールから話は聞いた。お前にも、何があったのか、詳しく聞きたいところだが。その様子では、かなり消耗しているようだな。」
瞼を閉じたり開いたりを繰り返しながら、俺は暗い天井を睨みつつ、ジュリアス様の声を聞いていた。
「・・・実は、私にも・・・よく、分かりません。」
俺は、ほぅ、と息を吐きながら、再び笑んだ。何かスッキリしているが、この蟠りが何処かへと霧散した感じが、何に由来するものなのか、俺はまだ分からないでいた。
「いや。よく戻った。」
繋いだ手とは、別の手が、するりと俺の額を撫でた。再びジュリアス様を見やって、俺は、この方の元に戻れなかった『一の騎士』を想った。
「落ち着いたら、ルヴァに話を聞け。どうもルヴァが聖地に持ち込んだ剣と、お前達の視察先でのトラブルが関係しているようだと、仮説を立てていた。お前達の話と合わせれば、少しは分かってくるかも知れぬ。」
「ご心配を・・・おかけして、すみません・・・。」
渇いた口を、なんとか動かして謝罪すると、ジュリアス様は、眉根を寄せた複雑な表情で、
「いや。」
と、短く言って、席を立った。
「よく戻った。しっかり休むのだぞ。」
部屋を出る際に、もう一度俺に労いの声をかけられ、数秒の後、パタン、と戸の閉まる音がした。
俺は、瞼を閉じてから、もう一度、ほぅ、と深い息を吐いた。
***
翌日。回復した俺はジュリアス様の勧めに従い、ルヴァの執務室を訪れていた。執務室に付けられた私室に誘われ、共に茶を啜る。
「えー・・・ですからそのぉ・・・。」
しどろもどろに続けられる解説を、俺は結局待ちきれず、何度目かの先読みで言った。
「つまり、ルヴァのせいなんだろ。」
やや据わった視線をターバンの男に投げながら、唇の先で言う。
「えええー!?!?それはいくらなんでも酷すぎますよー。いいですか、私はですねー。」
俺は再び続けられる長々しい釈明に、自分の頭髪をぐしゃりと潰した。つまり、こうだった。ルヴァが聖地に持ち込んだ剣は、遠い昔の百年戦争の曰く付きの剣で、おそらく、百年戦争は、俺とリュミエールが疑似体験したソレを発端としている。つまり、均衡状態を保っていた二つの帝国は、両帝国の皇子が互いの『一の騎士』を失ったことを発端として、関係が悪化し、そして、戦争の火ぶたが切って落とされた。
その剣の出所は、まさしくリュミエールの視察先であり、俺とリュミエールは、おそらく、その剣に籠められていたなんらかの力に、時空の歪みと共に、引きずり込まれた、と。
テーブルに積まれた史料では、両国の皇子が穏健派だったことには触れられておらず、俺やリュミエールが見聞きしたような友人関係も記録がない。だから、ソレが、アレかどうかは本当には分からない。・・・けれど。
「しかし面白いですねー。可能であれば、私も経験してみたいものです。」
好奇心に服を着せたような男は、うんうん、と頷きながら恐ろしいことをサラリと口にする。
全く、冗談じゃない!!ガシガシと俺はセットした髪を思わず乱してしまう。
「いいか。アンタは、とにかくその欲望に忠実に厄介事を引き込む癖をなんとかしろ!」
ルヴァは吃驚したように灰色の両目を見開いて言った。
「まさか、欲望の塊のような貴方に、それを言われるとは思いませんでした。」
その言い様は、失礼に過ぎる。
俺は聞き捨てならないとは思いながらも、無理矢理、前髪を振り払うような仕草で、それを見逃して、足を組み替え、気になっていたことを確かめる。
「それで、あの剣と、サクリアとの関係は?」
「それが、よく、分からないのですよ。確かに、あの剣は、両国の騎士のために作られた、言わば、それぞれの存在に、相対する剣。真帝国の国旗が青を基調としたもの、大帝国の国旗が赤を基調としたものであると言えば、まあ、そうなのですが。炎のサクリアや、水のサクリアとは、やはり、まだ遠い。」
いつだって、肝心の部分は曖昧だ。理知的な光を放つ瞳を伏し目がちにして、口元に曲げた指先をやる男は、俺の存在など忘れ、また複雑に過ぎる思索の海に浸ってしまったようだった。
・・・相対する、剣。
それで、俺とリュミエールとに同期するには、十分だったとでも言うのだろうか。はっ、と呆れたような失笑が己から漏れた。
「・・・けれど。」
続けられた逆接と共に、俺に戻された視線。俺は片眉を上げて先を促す。
「貴方は、どこか・・・変わりましたね。」
変わった・・・?何が。俺の胸中の問いを読み取ったのか、ターバンの男は、ふふふ、と控えめな笑い声を漏らす。
「なんというか・・・。印象が柔らかくなりました。」
「・・・。」
何を言い返して良いものか、突然見失って、俺は何か言おうと唇を開いて・・・結局、何も言わないまま、引き結ぶ。
「本当は。」
どこか、俺の瞳を通り越して、遠くを見ているようなルヴァの無表情。それは、何かに誘われるように、続きを述べた。
「本当は、サクリアという力は、もっと原初的な欲望を内包しているのかもしれません。」
俺は不意に、蒼く輝く『水のサクリア』と名乗った男を思い出した。
「・・・例えば、それは、相反するソレを、滅したいというような欲望を?」
揶揄うように笑って言った俺に、ルヴァは、相変わらずの無表情で応えた。
「そう。まるで、貴方達二人は、そうしたがっているように、私には見えました。」
居ても居なくても、苛立たせられていた時の感覚を思い出して、俺はルヴァが用意してくれた、既に冷め切っている緑茶を啜った。
『そうしたがっているように』・・・。それは、過去のものになったということだろうか。
「可能ならば、知りたいものです。」
にこ、と微笑まれる。その瞳は、今度はしっかりと俺の瞳を見ていた。
「何を?」
「そうですねぇ・・・。もし、サクリアが互いの存在を滅したがるような欲望を持っていたとして・・・ですが。」
ルヴァはそこで言葉を一度切って、茶を啜って。
「それを乗り越えられるのでしょうか。私達のような・・・サクリアを一時的に預かる・・・代謝される、器は。」
そこに答えを見つけようとするかのように、両手の中の湯のみの、水面に優しい視線を投げ掛けた。
代謝される、器。まるで意志など持たず、ただ、サクリアを収めておくだけのようでいて。けれども、俺達には意志がある・・・何故か。
「さあな。」
俺に答えはなく、俺には生憎そういった小難しく抽象的な議論に係うような趣味もなかった。
けれど、そういった議論が大好きそうな男は、俺の短い答えに、いたく満足した様子で、うんうん、と首を縦に振り、
「私はまだまだ史料に基づいて、確かめねばならないことがあるのです。」
と、にっこりと笑って見せた。
なるほど・・・?
「つまり、用が終わったなら早く出て行け、と。」
俺はやはり唇の先で言う。ルヴァは、ふふふ、とまた控えめな笑い声を立て、湯のみをテーブルに戻して指先を再び口元に当てた。
「貴方は実に聡明で、助かります。」
まるで本心とは思えぬその台詞に、俺は溜め息を吐いて、小さく肩を竦める。
「なるほど。聖地のシンクタンク殿の思索を邪魔しちゃ悪い。退散しよう。」
グイ、と残りの茶を飲み切って席を立ってから、恭しく礼をとってやった。
ルヴァの執務室を出て、らしくもなく少し逡巡する。それから、意を決するようにして、俺はアイツの執務室に足を向けた。
【14.器の意志】
コツ、コツ、とノックをして、「どうぞ」の返事を待ち、部屋に入る。執務机で溜まった書類に目を通していたらしい男は、動かしていた羽ペンを握った手を休め、視線を上げた。
瑠璃色の、深い瞳。
俺は少し目を伏せて、けれども視線を逸らさずに、執務机の前までまっすぐに歩み寄る。
男とまっすぐに視線を交えながら、けれども、いつもの焦燥感は追ってはこなかった。俺がそれを確かめる間を数えてから、男は俺を見上げたまま、緩く笑んだ。それを小さな驚きを伴いつつ、まじまじと見返し、言う。
「もう、いいのか。」
「ええ。昨日休みましたし。・・・貴方こそ。」
「ああ。」
短い応酬は、いつもの刺々しさが無いせいか、やりにくいことこの上ない。知らぬ間に眉を寄せていたのだろうか。プッ、と小さく吹き出して、男は声を失って笑い始めた。今にも腹を抱え出しそうなその様子に、今度は、自分の眉間に皺が寄るのがはっきりと意識される。なのに、男は口元に手をやって笑いを収めてつつ、それでもまだ楽しそうに俺を見上げ、カタリ、と小さな音をさせて、席を立った。僅かな身長差で、それでも俺は男を見下ろす。天板に白い指先を付いてから、机を回り込んで、
「お茶を、入れます。私室に行きましょう。」
と言った。俺は返事をせずに、男の後をついて私室に入る。この男に一体、何を話しに来たのか、あるいは、会って何をしたかったのか、俺は自分自身を訝しんでいた。
進められた白い長椅子に座って、足を組み、所在なく男が戻るのを待つ。リュミエールは、暫くの間、奥の簡易キッチンに引っ込んだ後、茶器をトレイに乗せて戻って来た。邪魔になったのか、先までは下ろしていた髪を、緩く左の肩口にまとめている。しずしずと、例の足音をさせぬ歩み方でソファに対し低めに設えられた白いテーブルに茶器を下ろして、俺に視線をやり、プッ、とまた少年のような無邪気な顔つきで笑ってから、
「何も取って喰いやしません。」
なぞと緩く笑んだままに言う。盛大に顔を顰めて、膝の上で両手を組み、
「誰が怯えている。」
不満に鼻を鳴らしてやるが、向こうは意に介した様子もなく、口元の微笑みは崩れない。向かい合って設置された一人掛けのやはり白いソファに腰をおちつけ、慣れた所作で茶を入れる様子を、指先の流れるような動きを、知らず目で追っている自分に気づき、俺はそれを視界から押しやるように、目を閉じた。
部屋に柔らかに差し込む日の光と、白く霞むようなこの部屋の内装は、目を閉じても、まだ眩しいような気がする。
茶器の微かな音と、茶を注ぐ音は、時をゆっくりと刻む聖地の中で、なおゆったりと時を止めてしまうような響き。俺の好みではないが、ハーブの香りは失った何かを労るような優しさを醸していた。
ふと、この空間に緩く心が解けようとしていることに気づく。
「『もう、いいだろう』と、言いましたね。」
昔話をするような、穏やかな声音に、薄く目を開ける。白く焼けるような空間に、現実味の無い白い男が独り。肩から掛けている淡い青色のショールと、同じく淡い色合いの髪が、唯一の色彩。
テーブルに少し身を乗り出すようにして、残った一方のカップにポットから茶を注いでいる。部屋に満ちたハーブの香りが、一層濃厚になって、漂う。
「ああ。」
俺は返事をしながら、コロキウムの真ん中で、雲のないのっぺりとした青空を背景に見上げた男の姿を思い出した。
「・・・あの時。それまでずっとあった心の強ばりが解けてしまって。けれども、何故解けたのか、未だによく分からないのですよ。」
懐かしむような表情は、なるほど、確かに強ばっているようには思えない。俺はふっ、と吐息に混ぜて小さく笑った。
「お前も見たという、『一の騎士』だがな。」
「ええ。」
「お前がどう思ったか、分からないが。あの『オスカー』は、確かに『リュミエール』を、よく知っていて。」
つい、と白い手に連れられて、俺の前に出でたカップとソーサーを、俺は持ち上げて、一口飲む。芳醇なジャスミンの香りが鼻に抜けた。沈黙に促され、
「おそらく、その記憶は、『この俺』の・・・あるいは、『いつかの、俺』のものなのだと、思った。」
決められた台詞を読み上げるように、俺は淡白に言い終え、カップをソーサーに戻してから、それをテーブルの上に戻す。続きを待っているような沈黙の後、男は、ふふふ、と軽く笑って、髪を緩く掻きあげた。男の向こうの窓から漏れる陽光に、綺羅綺羅と薄い色の髪の上を光の粒が細かく踊る。
「それでは、まるで私と貴方が、時を越え、繰り返し邂逅しているようではありませんか。」
「さあな。」
俺は、自分の主張を、自分で混ぜ返す。それまでの神々しさをどこかへと霧散させ、男はムッ、と口をへの字に曲げたコミカルな表情を見せる。その様に思わず、クッと喉が詰まった。
「そうではないという確証も、そうであるという確証も、あるまい?」
俺が揶揄うように言うと、男は、ますます眉を寄せ、だが、その後破顔した。
「得意の、『考えても仕方が無い』というやつ、ですか?」
鼻頭に皺を寄せ、クスクスと笑う無邪気さは、まるで俺の知る『リュミエール』とは遠く、けれども、何故か懐かしい。
「無論だ。それに・・・。」
「「いつかは、終わる。」」
ムッツリと互いに真面目な顔を作って言った台詞が揃って、俺達は互いの顰め面に耐えかね、ケラケラと喉を仰け反らせ、声を上げて笑う。ハー、と笑いをなんとか収めたという様子で、リュミエールは白い指先で、目尻を擦った。
「意味がありそうなことを見つけて、ただ、するだけ・・・。」
続けられた台詞に、俺は男に視線を戻す。また男は例の懐かしげな笑みを浮かべ、テーブルの上に柔らかな視線を投げていた。
「私に、それを真似できるとは思いません。」
きっぱりと続く言葉に、俺はただ男を見つめる。
「意味など無くて、構わないとも思えない。」
そうだろうな、と思った。だが、重い荷を背負うやるせなさも、哀しみも絶望も、男のまっすぐに俺を見やる瞳には、もう感じられない。
「けれども、貴方がそうして、貴方で在り続けるように、私は問い続けることで、私で在り続けるのでしょう。」
強い瑠璃色の眼に、俺は、『慰めてやりたい』等と思っていた自分を哀れんで、肩を竦めて見せ、それからフゥと自らの前髪を吹き飛ばしてから、続けてやった。
「そうだな。いつか終わる、その時まで。在りたいように、在ればいいさ。」
男はクスリと笑って。
「そうですね。在りたいように。」
と、完成度の高い笑みを見せた。そして、するりと音無く立ち上がる。テーブルを回り込み、男は俺の右隣に腰掛け、身体を捻るようにして俺を伺い見た。
突然近くなった距離に、訝しむように片眉を上げる。
「・・・?」
「『言いたいことがあるなら、口を使って言え。』とも、言いましたね?」
瑠璃色が、余裕を持った笑みを形作り、首が小さく傾げられる。男の手が、すっとさりげなくソファの背もたれに伸ばされ、まるで自分の背に腕を回されているような感覚になり、ますます俺は居心地が悪くなる。
「・・・言ったが。」
川の中で、肩を震わせ、俺には察せぬ絶望に打ち拉がれていた男を思い出し、俺は続く台詞に構えるように、自分の身を抱いた。
男は、俺の前でいつも見せる、能面を取り戻して、白い顔から浮き上がって見えるような、紅い口を開いた。
「貴方が、欲しい。」
ふむ、なるほど・・・。・・・て、・・・はぁ??
隣から身を寄せて来た男を避けるように、俺は左に仰け反り、やがてソファに背をついてしまう。身を抱いていた手を解き、ちょっと待て、と片手を上げる。
その手を気にした様子も無く、俺の顔の両脇に、奴の肘が置かれ、肩口で束ねられた薄い色の髪が、俺の耳の脇に落ちる。
近過ぎる距離に、互いのサクリアから来るものではない焦燥感に、俺は暫し自失する。数瞬の後、ようやく戻って来た自我と、今度は格闘する羽目になる。
「待て。明らかに話が飛び過ぎだ。」
そう、飛び過ぎだ。
「というと?」
男はまるで会議室で見せるような怜悧な表情。これもまた、明らかに状況と表情が一致していない。
「その、お前は、俺が・・・好きだということか。」
何の確認だ。俺はほとんど己の間抜けな台詞に憤死しかかる。
「好き・・・?」
俺を至近距離から見下ろしたまま、男は、僅かに片眉を跳ね上げる。
「なんだ、違うのか。」
ほぅ、と安堵の息が漏れた。良かった・・・のかどうか知らないが。
「好きだとか、嫌いだとか言う、問題ではありません。」
キッパリと、やや怒っているような口調で男は言った。
「では何だ。」
俺も煽られて、瑠璃を睨み上げ、噛み付くように返す。
「ですから、『欲しい』と。」
ムッとしたコミカルな表情を能面に登らせて、宣う。
俺は止まりかかっている脳みそを必死にブン回そうと、両目を閉じて、強過ぎる瑠璃色の光を視界から追い出す。
好きだか嫌いだか分からないが、欲しい。ふむ・・・。
「いや、サッパリ分からんぞ。」
胸中で反芻したものの、やはりさっぱり分からなかった。
「貴方が『口に出せ』と言ったから、言ったまでです。」
いっそ、『待った私が馬鹿だった』とでも言いたげな苛立ちさえ滲ませて男は宣い、それから、少し視線を伏せて、笑った。
「在りたいように、在れば良い。・・・でしょう?」
俺が何事か言い返す前に、唇が下りて来て、重なった。不意に、唇から喜悦が全身に広がり、俺はその柔らかな感触に浸る。
男は唇を一度僅かに上げ、前に落ちた括っていない方の髪を掻き上げて、
「なんだ。最初から、こうすれば良かったのですね。」
と笑った。俺は、全身に広がった喜悦に気を取られていて、反応するのが遅れた。
「あ・・・?」
台詞の意味を取る前に上がった間抜けな声。半開きになった視界に、奈落の底のような瑠璃色が映って、俺はビク、と身体を震わせる。その隙を、性急な口づけが襲った。そのまま貪り喰われるのではないかというような荒っぽい口づけに、俺は反射的に顔を振って逃れようとする。・・・が、どうした訳か、上から伸し掛かる男はびくともしない。そもそもが、狭いソファの上。その上、俺の顔の両脇は、水の守護聖の二の腕で固められている。逃れる俺を、追いかけるようにして、舌は俺の口腔を貪って、息が継げない。
「ンンッ・・・フッ・・・・!」
ようやく俺は、空いた手で奴の胸板を押し返すことを思いついて、身体の隙間に手を入れ、なんとか押し戻そうとする。が、今度は酸欠になりかかっているせいか、それとも奴の舌技に翻弄されているとでもいうのか、なかなか力が入らない。
顔を思い切り振って、なんとか男を振り払い、気道を確保し、荒い息を吐く。
「ハッハッ・・・な・・・ん、な、だ!」
忌々しいことに、舌が痺れてうまく発音できない。唾液に塗れた顎を手の甲で荒っぽく拭い、抗議の視線で睨み上げる。奈落の底の瞳は、俺の瞳を無表情に見下ろしていた。じっ、と視線が、俺の瞳、耳、そして顎先、唇へと流れる。
まるで視線で嬲られているような感覚になり、俺は小さく身じろぎする。
「お・・・い・・・?」
それから、再び、俺の瞳に視線を戻すと、やがて、見慣れた・・・どうしようもなく、孤独と絶望を孕んだ色に変わる。
・・・どうして。
「どうして、そんな目をする。」
俺は、右手を上げて、やつの頬に指の背をあてた。俺が、そうさせているのだろうか。・・・俺が・・・。
俺は、慰めるように、男の顔を引き寄せ、頬に、鼻に、唇を落とす。意図を問うような視線に、俺は、はぁ、と溜め息を吐いた。
「安心しろ。」
やや、やけっぱちに、俺は脱力して告げた。
「・・・?」
尚、問うような視線に、思わず、あークソ、と荒っぽい口調になる。
「俺は幸い、丈夫な質だ。お前が、多少、無茶をしても壊れん。」
我ながら、何を言っているのだか、と呆れる。・・・が、俺は、多分、この、どうしようもない絶望と、孤独と、哀しみを、なんとかしたいのだ。それこそ、どうしようもなく。それは確かで。
戸惑うように唇が近づいて来たので、俺は、顔を傾け、自分から唇を合わせる。薄く誘うように口を開いてやり、舌を迎え入れて、自分から奴の舌を絡めとる。すぐに、再び飢えを思い出したように、性急になる舌の動きに、呼応しながらも、宥めるように、男の頭を撫でてやる。
もう、気が済んだだろ?と、俺が三回くらい思ったところで、やっと男は顔を上げた。唇と唇が名残惜しむように銀糸で繋がり、やがて、ふつりと切れる。俺は、既にぐったりしていた。
身体を起こした男の動きを追って、自分も身体を起こそうと、ソファに両手を後ろ手について、やや上体を起こす。そこで、目の前の男が服を乱雑な動きで脱ぎ始めたのを認めて、固まってしまう。
「おい。まさか・・・。」
俺の疲れた声に、男は既に上半身を裸になった格好で、憮然とした表情で俺を見下ろす。その顔が、あまりに外見に合わぬコミカルなもので、俺は思わず笑ってしまう。
「分かった。分かった。」
俺は両手を小さく上げて降参し、自らも服を脱ぐ。全部脱いでから、
「寒いぞ。早く来い。」
といって、男を引き寄せ、ソファに背を投げる。どさ、と俺の上に引きずられるように身を投げてから、男は両手を突っ張って、身体を起こす。
「待って下さい。持ってきます。」
何を?とは思いつつ、俺はそれを見送る。パタパタと常に無い慌ただしさで、簡易キッチンから裸で戻って来た男は、手に小さなラベルの付いていないボトルを持っていた。
「なんだそれは。」
「アロマオイルです。」
にっこりと、子供のように無邪気な笑顔で言われ、俺は複雑な気持ちになる。
「一応、確認するが。俺が下か。」
ほとんど棒読みで問うと、男は、パチクリと、いっそ可愛らしく目を瞬き、
「貴方の方が丈夫なのです。当たり前では。」
等と言い出す。俺は、「なるほど。男に二言はない。」再び、降参のポーズを取る羽目になった。片手にボトルを持ったまま、男は顔を近付け、耳に、首筋に、キスを落とす。
奴の細い髪が肌に当たるくすぐったさに、身を捩りながら、縺れ合うように再びソファに身体を倒す。
つつつ、と舌先が、筋肉の稜線を撫でるようにして、胸に下りてきて、俺はピク、と身体を揺らす。舌先が、胸の頂きを絡めとる。男が、ンなとこで感じるか、と抗議の声を上げようとして、軽く歯を立てられて、
「アックッッ!」
自らの上げた声に動きを止める。向こうも吃驚した、とでも言うかのように、動きを止め、上げられた視線が絡む。俺は居たたまれなさに、カッと頭に血が上り、奴を殴りつけたい衝動に駆られる。なんとか拳を握りしめて、それを堪えるが、男は確かめるように、チロリ、チロリとねちっこく舌でソレを弄び、歯を立てることを繰り返す。なんとか右手で口を抑え、声だけは噛み潰すが、ビク、ビク、と身体が跳ねるのを止められない。ちょっと待て、一体、何が・・・。確かめるように、視線が勝手に、自分の胸を見やる。ぷっくりと腫れ上がったソレに、リュミエールが舌を伸ばし、見せつけるように、それを押し付ける。
「ンンッ・・・クッ・・・。」
噛み殺せない呻き声が漏れて、俺は空いた片手でリュミエールの頭を押しやろうとするが、力が入らない。やがて、リュミエールが歯の先に力を込め、グッ、と顎を引く。
「ンーーーーーッッ!!」
噛み千切られるのでは、と思う程の痛みに、ギュ、と瞼を強く瞑り、頭を一度振って、頬をソファに擦り付け、耐える。
「血が・・・。」
と、傷を付けた張本人が、痛々しそうな声で呟き、その傷を癒すように、抉じるように、舌先で嬲る。チリチリと、焼け焦げるような痛みと痺れに、脳が混乱する。
「ア・・・、ハ・・・、ア・・・。」
いつの間に手が外れたのか、ズキ、ズキ、と痺れるような痛みに合わせ、声が上がる。
「凄い・・・。そんなに・・・ですか?」
・・・何がだ!このサド!!感嘆するような声に、俺は非難の声を上げようとして、目を開き、俺の瞳を間近から見下ろす、リュミエールの瑠璃に捕まる。欲に濡れた、見たことの無い雄の瞳と、吹きかけられた熱い吐息に、ビク、と身体を強ばらせる。おそらく、驚愕に見開かれているだろう俺の瞳に、リュミエールが、
「だって、ほら・・・。」
と、俺の中心を一度擦り上げる。知らぬ間に、ぎっちりとソコは勃ち上がっていた。俺が聞きたい。
『どういうことだ!』
ピン、と指先で先端を弾かれて、
「アァックッ!」
苦鳴が漏れる。触られていなかった方の胸も、ねっとりと舌で包み込むように愛撫され、今度は指先でそれが摘まれる。くり、とキツく抉じられると、ブルブルと身が震え、全身が痺れた。
「ツッウッ・・・。」
これは痛みだ、痛み・・・。言い聞かせながら、ジンジンと痺れる感覚を、頬を必死でソファに擦り付けて、やり過ごそうとする。俺が、なお身体に残る痺れの余韻と格闘している内に、リュミエールはソファの上に放ってあった小瓶を回収し、その中身を掌に空ける。既に分からなくなっていたジャスミンの香りが、ブワ、と強烈に香る。
ほんの少し、先走りで濡れた俺の中心を撫でてから、ぐい、と俺の片足を胸に付けるようにして、後ろにオイルに濡れた指先をあてる。
俺は痛みと痺れに混乱を来している脳で、知ってはいたが、やっぱりそこか、という想いと、本気で初っ端から最後まで致すつもりか、という我ながら往生際の悪い感想を内心で漏らす。
つぷ、と指先が、中に押し入ってくる。瞬間、強烈な異物感に、身体が強ばる。
「力を抜いて下さい。」
声に薄く瞳を開くと、もう既に我慢の限界、とでも言いたげなリュミエールの顔があった。人間らしく紅潮した頬と、潤んだ瞳、だらしなく、熱い吐息を吐き出す紅い唇に、俺はゾク、と背筋を痺れさせ、却って入り口のリュミエールの指先を締め付けてしまう。
「ア、ァ・・・・。」
懸命に力を抜こうと息を吐き出して、じり、じり、とやっとリュミエールは指を内部へと進める。根元まで埋め込むと、身体がその感覚に慣れる前に動き始める。
「待、て・・・。」
静止の声が聞こえなかったはずはないが、指は止まらない。
けれど、オイルに濡れているせいか、一度奥まで入った指は、その後は、ずり、ずり、と慣らすように前進と後退を繰り返す。内臓を内側から擦られる違和感に、「ウ、ァ、・・・ハ・・・。」と情けない呻き声を上げる。
不意に、ぐり、と中で指が回転して、内壁を引っ掻くような動きが加わって、俺は焦る。
「待、て・・・・テッ・・・・アアッッ!!」
ビクン、と身体が一際大きく跳ねて、俺の意志と無関係にグッと身体が固く締まる。リュミエールが一瞬、動きを止め、だがその後、無遠慮な動きでそこを撫で摩る。
「アアッアアアッフッアァッッ!!」
『ヤメロ!』と叫びたいが、唇と舌が思うように動かず、ただ俺は悲鳴を上げる。そのまま達してしまうのではないか、というぐらいの急激な吐精感に襲われて、全身がガクガクと震える。が、急に指が引き抜かれ、俺は、急な虚脱感に、やや非難がましい視線でリュミエールを睨む。
リュミエールは、紅潮していた頬を更に紅く火照らせながら、けれども、意地悪く笑った。
「まさか、後ろだけでは達けないでしょう?」
コイツ、分かってやってヤガル・・・。しかし、男のプライドというものが、俺にはあった。
「ハァ・・・。」
と、吐息を吐き出して、熱をやり過ごそうとして、その隙に、膝裏を今一度ぐい、と押され、固く熱いものが入り口に当たる。
「馬鹿、まだッ・・・・ッッ!!」
入る訳ないだろうが!!と、叫ぼうとして、ズルゥ、と一気に押し入ってきた熱の塊に、背筋が痺れる。
「ハッ・・・クッ・・・。」
視界が突然のことに、チカチカする。だのに、リュミエールは、
「ハ、ァ・・・。・・・・ンン・・・。熱い・・・。」
感慨に浸るように、ブル、と身を震わせる。圧迫感に、息が詰まって、俺は、ギュゥ、と瞑った瞼から、生理的な涙が一筋、こぼれ落ちるのを感じた。
キュ、とやつの白い指先が、俺のこめかみを撫で、涙を拭う。
「あぁ、つ、・・・い・・・。」
なんとか、吐息の合間に、舌足らずながら抗議の声を上げ、薄く瞳を開くと、グッ、と奴が顔を顰めた。何かに耐えるように、奥歯を噛み締めた。
「・・・?」
「これでも、こっちは、耐えてるというのに・・・。」
ほとんど絞り出すような声は、何かに怒っているような鋭い視線を伴っているが、その原因が思い当たらない。けれども、その鋭さに、また全身をゾクン、と強烈な予感が走り抜ける。
「あ・・・。」
グッ、と更に乱暴に、膝裏を掴む手に力が籠って、パン、と大きなグラインドが俺を襲う。ほとんど拷問のような鋭く大きな動きに、意識がそれだけで吹っ飛びかかる。なのに、その動きは、連続で俺を襲った。俺はなすがまま、ガクン、ガクン、と揺さぶられる。オイルが十分なのか、割けるような痛みはないが、だからこそ、余計に脳天を突き上げる、この感覚が、なんなのか分からずに追い詰められる。
「アアッ!アァゥッ!!ハッ・・・!モッ・・・!」
もう、ダメだ・・・。チカチカと俺の脳を白く焼く明滅。
捻るような動きを加えられて、
「モッ、・・・タッ、ムッッ・・・ヤッ!・・・・ァッ!!」
ほとんど懇願し、縋り付くものを探すように泳いだ手が、リュミエールの腕を強く掴むが、リュミエールの動きは却って激しさを増すばかりで。やがて、倒れ込むように、俺の上に上体を乗り上げ、俺の顔の横に両手を付いて、闇雲に腰を振るい出す。
「アアアァァアァアァァッッ!!」
爆ぜるような感覚に、白く塗り籠められる脳と、下腹から唸るように俺を襲う急激な落下の感覚。
ーーー落ちる!!!
なお揺さぶられて、びゅ、びゅ、と暖かいものが俺の顔に掛かる。
ググッ、と最後に腰を押し付けるようにして、焼けるように熱いものが、中に注がれる。グッと眉間に皺を寄せた、リュミエールの顔が、じわりと解けて、ビクン、ビクン、と、余韻に身体を揺らす俺を、愛しげに眺める。
『幸せそうな顔、しやがって・・・。』
俺はその顔に満足する。
垂れ流しになった涎と涙、降り掛かったソレで汚れた俺の顔を、指先で拭う気配に、目を細めて・・・そこで意識がふっつりと途絶えた。
瞼の裏に映る、水のサクリアのような、黒衣の一の騎士のような男に。
「ほら、な?・・・できただろ?」
と俺は笑んだ。
【15.封印の遺跡】
「なんでアタシが。」
その言い様に、私は思わず吹き出してしまう。
「もう何回目になりますかねぇ。」
実際、この惑星に例の剣を封印しなければならないとなり、派遣されるのが私と彼となった時点で、随分彼はごねたのだ。その後も、沈黙が訪れる度に、彼はその台詞を繰り返している。
「大体さー。オスカーとリュミちゃんな訳でしょ?今回のこの案件に関わったのはぁ。」
仕事嫌いの彼に頼むと決まった時点でいくらかは覚悟したつもりだったのだが、それでもまだ私は見積もりが甘かったと言わざるを得ないだろう。
二人で例の洞窟に着いて、いよいよ剣を神殿跡に封印する、という段になって、まだ、この調子だ。
「ですが、彼等に任せる訳にもいかないでしょう?彼等とこの剣は、近過ぎる。繰り返さないとも、限らないですから。」
反論しながら、私は持って来た剣を地面に下ろす。彼もぶつくさとは言いながら、それでも、剣を地に下ろす手は動いてはいた。
9つの石の中心に、斜めに十字を描くように、剣を配置して、私はそれを見下ろす。
鈍く光る、二振りの剣。
一つは、大ぶりの両手剣で、十分な長さと厚みを備えている。
一つは、細身の片刃の剣で、両手剣には劣るものの、十分な長さがあり、薄く仕立てられている。
凝った持ち手と鞘のデザインは・・・どちらも振るう者を選ぶのだと主張している。
両手剣には、大きな赤色の石がはめ込まれていて、片刃の剣には、青色の小ぶりの石が、四つ、組み合わさるように意匠の中に配置されている。
互いを打ち消し合うための存在として造られながら、けれど、それは確かに、この瞬間、互いの存在を引き立て合っている。
「本当。まるでリュミちゃんと、オスカー。」
真剣な声音に、顔を上げると、彼は瞳を半分程綴じ、剣を無表情に見やっていた。伏し目がちにされたダークブルーの瞳は、豪奢な睫毛に縁取られていて、それこそ、宝玉のようだった。肩を出したその装いに相応しい、半分程アップにされた豪奢な金の巻き毛。それとは対照的に、半分ほど顔を隠してしまうような、鮮やかに染められた前髪。表情をなくすと、いつもよりずっと、彼は性別が分からなくなる。・・・いや、寧ろ、その姿は、性別など彼にはないのではないかと思わせる程。
それを眺めながら、神話は、水と炎の青年達のものだけではないのかもしれない、と私は不意に思いついた。
視線に気づいた、というように、彼が瞳を持ち上げて、こちらを見る。やがて、いつもの調子を取り戻し、彼は艶っぽく笑んだ。
私は、人差し指を立てて、クルクルと回しながら、
「それでは始めましょう。力を貸して下さい。オリヴィエ。」
と笑った。魔法使いにでもなったつもりで。もう一人の魔法使いは、肩を大袈裟に竦めた。
「やればいーンでしょ。やれば。」
二人、顔を引き締めて、肩幅に足を開き、剣に両手を翳す。
緩くサクリアが掌に精錬される。呼応するように、パァ、と剣が輝き出し、周囲が対照的に暗く沈む。まるでその剣から出でる力を身体に受けるように、ふわ、と風を感じた。
これ以上は、目を開けていられない、という程に光量と風圧が高まった瞬間。
『許さ・・・ッッ!!よ・・・も・・・ッッ!!』
『いつま・・・、こう・・・!』
『・・・さまッッ!!貴様が・・・!!』
『出会・・・・・・でな・・・・!』
幾人かの声が重なり合い、けれども、その意味は取れない。
パァンッ・・・・
世界が弾けるような音と共に、光と風が失われ、不意に洞窟に静寂と、洞窟の入り口から入る自然光が戻った。剣は、跡形も無く消えていた。
「おやすみ。」
静寂に響く、小さな小さな呟きに、私は顔を上げる。そこには、両手を剣のあった場所に翳したまま、緩く口元に微笑みを浮かべる、夢の守護聖が静かに佇んでいた。
「おやすみ?」
私が問い返すと、彼はそれまでの雰囲気を一変させ、両手を下ろして片眉を跳ね上げる。
「はあ?」
「いえ。今、『おやすみ』と言ったでしょう?」
「アンタ、小難しい本の読み過ぎで、ボケちゃったんじゃないの?」
私は首を捻り、「えぇ??でも確かに・・・」と続ける。納得のいかぬ私を、相手にしていられないといった様子で、彼は遮るように「アー、疲れた疲れた」等と宣い、惜しげも無く剥き出された肩と腕をグイと伸ばしながら、洞窟から立ち去ろうとする。それを慌てて追いながら、一度だけ、神殿跡の九つの岩をチラリと振り返った。
そこには、剣があったことなど、まるで知らぬ素振りの、ただの岩が丸く並んでいた。
「ちょっと、待って下さいよー。」
果たして、サクリアは互いの存在を滅しようとする欲望を抱えているのか。
夢の守護聖は、魂を夢に誘う、終わりの力を担っているのか。
あるいは、封じられた剣は、何処の次元へと姿を消したのか。
いや、それよりも・・・・。
「惜しい史料を無くしました。」
私は、思わず唇から出た、不謹慎な自分の思いつきを、苦笑で見逃す。
帰りの船で、シートに身体を沈めながら、例によって思索に耽り始めた私に、オリヴィエがワイングラス片手に耳元で呆れたように言った。
「良かったねぇ。」
ほとんど胡乱な目つきは、先ほど見た『終わりの守護聖』には程遠く、あれは私の妄想だったのじゃないかと思わせ、笑いを誘った。
「何がです?」
笑みに歪んでしまった口元でなんとか言う。
「世の中、分かんないことだらけでさ。」
下唇を突き出し、小さく肩を竦めてから、グラスを押し付けられる。私はそれを受け取って。
「そうですねぇ。サクリアの存在も、私たちの存在も。果たして、何故此処へ来て、これから何処へ行くのかも。」
「アンタの一生で、その謎を解くのに足りるのやら。」
彼のうんざりとしたような苦笑に、私は今度は思わず声を上げて笑う。
「何?」
意味が分からない、と不満気に顰められた顔に、私は空いた片手を上げてエクスキューズのポーズを取る。
「だって、オリヴィエ。私は与えられた時間の中で、ただ、解くだけですよ。」
「じゃあ道半ばで構わないって訳?」
フン、と彼の鼻が鳴る。
「そりゃあ、そうでしょう。解いた結果も面白ければ、言うことは勿論ありませんが。けれども、結果はともあれ、解くことそのものが楽しいから、私は解くのです。そう、きっと・・・。」
「・・・?」
緩く笑んだまま、私はどこか遠くを想う。
「幸いなことに、世界は謎に満ちていて。どれだけ解いても、私は一生、謎にあぶれることはないでしょう。だから、私は道半ばで人生を終えます。ですから・・・そう、ですから・・・。きっと、誰かが、気が向いたら、続きを解いてくれるでしょうよ。」
私は彼のくれたワインに口を付けてから、彼を真似て、嫌味に片眉を上げて見せた。彼は、一瞬呆気に取られたように、ダークブルーの両目をパチリと見開いて。それから、自分のシートテーブルから自分の分のグラスを取って、私に同じく、嫌味に片眉を上げながら、言い放つ。
「なるほど?それじゃ、期待するとするか。訳の分からない謎なぞに、係うことが楽しくてしょーがないって、変わり者の転生に?」
艶っぽく傾げられた首に、吹き出してから、
「「乾杯。」」
グラスを共に小さく上げた。
【結】
剣がある。
一つは、大ぶりの両手剣で、私にはとても扱えないだろう、という程の長さと厚みを備えている。
一つは、細身の片刃の剣で、先の両手剣には劣るものの、十分な長さがあり、薄く仕立てられている。
凝った持ち手のデザインは、どちらも振るう者を選ぶのだと主張するようだった。
両手剣には、大きな赤色の石がはめ込まれていて、片刃の剣には、青色の小ぶりの石が、四つ、組み合わさるように意匠の中に配置されている。
「この剣は・・・。」
意図に反して、私の声が暗闇に響く。
「この剣は?」
間髪入れずに、問い返すのは、聞き慣れた男の声音。
「この剣は、私と貴方。」
「俺とお前?」
「そう・・・。互いに、互いを打ち消し合うために造られた。」
そう、互いに・・・互いを・・・・。私は、自分の呟きを胸で繰り返して、泣き出したい気持ちになる。
「なんだって?」
苛立ち気味な男の声に、私は胸を押しつぶされそうな痛みを覚える。
「私は、哀しい・・・・。ただ、貴方と、相対する存在であることが。」
絞り出すようにして、続きを述べる。
「きっと・・・できない。」
相対する剣に抗うことも。
相対するサクリアに抗うことも。
ただ、繰り返すことしかできない。
もう、繰り返したくなど・・・ないのに。
「そんなことは、どうでもいい。」
不意に、辺りに響いていた男の声が、はっきりと肉声らしい肉声となって、私の耳に刺さった。
・・・どうでも・・・?
「なあ。もう、いいだろ?」
耳元で暖かく囁く声に、胸の蟠りがゆっくりと解けていく。
「なあ。もう、随分長いこと、俺達は、すれ違ったから。」
懐かしい、声。そう、本当は、随分長いこと、私は彼を知っている。
「どうせ、いつかは終わるのだから?」
笑いを含む、私の声に、きっぱりとした誓言が続く。
「在りたいように、在れば良い。」
そうですね・・・在りたいように。
そう、今度こそ。
目頭が熱くなって、剣の像が歪む。
やがて、視界が白く焼けて、鈍く光を放っていた剣が・・・霧散していった。
『おやすみ。』
柔らかな別の声に誘われるようにして、私は目を覚ます。寝起きのぼんやりとした感覚のままに、私は身体をゆっくりと起こす。
見慣れた自分の家の、白い主寝室。
開け放したままだったのか、窓から爽やかな風と光が入り、レースのカーテンと戯れていた。
ベッドの上の温もりは、何度目かの訪れとなる、私の部屋に似つかわしくない鮮烈な色の髪の持ち主。枕に頬を擦り付けるようにして、まだ寝入っている彼の頭髪に、指を通す。
私が起きてしまったせいで、彼は肩甲骨を風に晒していて。少し寒いのか、「んん・・・。」と、もぞもぞと身を捩り、私の腰を抱く。
彼の質量のある、確かな腕の感触が、直接肌に伝わる。私はそれを緩く撫ぜ、笑んだ。
キィン、キィン、キィン・・・・
遠く、コロキウムで鳴くのは、二振りの剣。
私はその記憶の残骸に、「おやすみ。」と声を掛けた。
終
リュミオスの同人誌『ふたふりのつるぎ。』再録です。 再録のリクエストを頂き、こちらに掲載してみることにしました。 オスカー様、お誕生日おめでとうございます!愛を込めて。 ノマキ
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