(ああ、この年も終わるのだな。)
昼休みに執務室を出たところで、大量の本を抱えてふらふらと歩いてくるルヴァに出くわし、ジュリアスはふ、と口角をあげた。
ルヴァは日々大量の本を読む。購入した本、借りた本。新しい物、古い物。歴史書、研究書、物語、実録…。ありとあらゆる形式の本に興味を持ち、貪欲に読み、吸収していく。地の守護聖は基本的には無欲で利他主義な人間だが、知識に関することだけは恐ろしく強欲だ。
あまりにも読むことに夢中になるあまり、その本を整理したり返却したりするのは忘れがちな地の守護聖は、何年か前に一度執務室内で本の雪崩を起こし、危うく大惨事になるところだった。知恵を司る地の守護聖が、知識の山にうずもれて圧死などということになったら笑い話ではすまされぬ。その時は運良くよく崩れなかった本の柱に守られて無傷で済んだルヴァだったが、それでも彼を崩れた本の山の中から救出するのに半日かかった。
その後ルヴァは「せめて一年の終わりには、一回部屋に置いている本を何とかするように」と女王補佐官から…つまりは宇宙の女王から命じられ、それが習慣化し、今に至る。
ルヴァが借りていた本をあちこちに返して回ったり、うっかり重複して買ってしまった本を人に贈ったりするのを見かけるのは、今や年の終わりの風物詩と言っていい。
「ルヴァ」
「あ…あー、こんにちは、ジュリアス。助かりましたよー声をかけてくださって」
ちょっと今、前が見えないもので…大抵の人は避けてくれるからぶつかりはしないんですけどねー、声をかけてくださらないと、私もちょっと怖くて…などと言って本の陰から首を伸ばしてへにゃりと笑って見せる地の守護聖から、何冊か本を取り上げる。
「せめて前が見えるくらいずつ運べばどうだ…。どうせ一往復などでは済まぬであろうに」
「そうなんですけどねー…この辺りは結構長く借りている物でして、ちょっと気持ちが焦りました…すみません。ジュリアス」
「…長く借りている物であればなおさら数時間返却が遅れたところでどうということもあるまいに」
「…そう言われてみれば、そうですねー。いやぁ、私としたことが」
ルヴァはにこにこと首を傾げた。多分、手が空いていたら頭の後ろに手を回したことだろう。
「それでも、気付いたのならちょっとでも早く返すべきかと思いましてねぇ…」
「気持ちはわからぬでもないが…」
苦笑すると、ルヴァもまた眉を下げて笑い、
「ちょうど良かった。ジュリアスに返す分もあるんですよ」
と、言った。
真ん中より少し上です。と言われ、そのあたりを見ると、確かに見覚えのあるタイトルが数冊入っている。
「崩れないように抜くことはできますかー?」
そう言われても、元々不安定そうな山の中の一角だ。一度置いて、そこから受け取った方が良いだろう。
「悪いが崩さぬ自信がない。もう何冊かこちらにもらおう。私の部屋で受け取る」
「ああー、それより…私、オスカーのお部屋に行くところだったんですよー。ついてきてもらえますか?」
ルヴァは横着にもつま先で「そこです」とでも言うように廊下のドアの一つを示した。
「一緒に来てもらえると、とても助かりますー。ご覧の通りのありさまで、考えてみたら私、今ノックもできないんですよー」
この男は私に行き会わなかったら、この本を抱えたままどうしたのだろう? 声で部屋の主を呼ぶか、まさか足でドアを蹴ってノックしたのではあるまいな? と少し呆れつつ、ジュリアスもオスカーの部屋に用事があって出てきたのだから否やはない。
「オスカー」
ドアをノックして声をかける。
「オスカー、私だ。ルヴァもいる」
「すぐに!」
中からオスカーの声がしたが、扉を開けたのは別の者だった。
「すまぬ。緊急か」
扉を開けたのが派遣軍の制服を着ていたのでそう言ったが、次いで出てきたオスカーは小さく唇の端をあげ、首を横に振った。
「大丈夫です。ルヴァ、お前の方が大丈夫じゃなさそうだ」
「ああー私も大丈夫ですよー」
「とりあえず本はそこにおけ。…ああ、ルボシュ、ちょっと待ってくれ。さっきの…」
ジュリアスたちが部屋に入るのと入れ替わるように廊下に出た派遣軍の者を追いかけ、オスカーはまだ二言三言言葉を交わし、扉を閉めた。
「ジュリアス様。申し訳ございません」
「何かあったのか」
オスカーのデスクの上は珍しく乱雑に資料が広げられ、軍部との通信用の端末が開きっぱなしになっている。
「いえ、今週の頭にご報告した星域の騒乱が思いの外長引いておりまして…」
緊急事態、というほどの事でもないのですが、予想より長引いたので人員の入れ替えと補給線について話し合っておりました、とオスカーは資料をまとめながら言った。
「それは…すまぬな、忙しい時に」
「とんでもありません。大したことは…。ルヴァ…お前…もうちょっと運ぶ量を考えたらどうだ? どうせ一往復じゃすまないんだろ?」
どこかで聞いたようなことを言いながら、オスカーはルヴァがテーブルに置いた本の山を適当にならしていく。ルヴァの方は「はー…やれやれ…」と腰を伸ばした。
「いやー…面目ない。朝から図書館と書庫には二往復したんですが、まだあるんですよねー」
「まったく…もう昼だぞ。ちょっと休憩しろ。ジュリアス様もご一緒に。コーヒーを淹れます」
「ああ」
「すみませんねぇ…」
オスカーはルヴァとジュリアスにソファを勧め、自分はコーヒーを淹れはじめる。
ルヴァはソファに浅く腰かけて、オスカーが分けた山の中から四、五冊の本を抜き、「これがジュリアスにお借りしていた本です」と差し出した。
「うむ。確かに」
「オスカーのは…」
ルヴァはまた山の一部を別にする。
「多いな」
「軍部の資料室の本なんですよ。オスカーに頼まないと借りられないんです」
「色々な星の気候や地理学に関する本ですよ」
オスカーが淹れたてのコーヒーをジュリアスの前に置いて言った。
「本と言うよりも報告書ですが、一部は書籍になっているものより情報が新しいので」
「なるほど」
「しまったな、さっきのやつに頼んで持って行ってもらえばよかった」
分けられた山を執務机に動かしながらオスカーは笑う。
「ああ、もう一冊! 大事なのがありました」
ルヴァが言って、思いの外小さな本を差し出した。
大きさは手のひらに少し余る程度だが、サイズの割には厚みがあり、天地や小口には金が施されている。黒い皮の表紙や背は手擦れですり減っているが、何より目を引くのはその表紙と裏表紙の上下に施された銀細工だ。美しい透かし彫りはそのまま留め金になり、小口を封印している。
「ああ」
オスカーはコーヒーを置き、手をズボンでぬぐうと両手でその本を受け取った。
「ありがとうございました。大事な本を貸して頂いて」
「いや、いい」
「美しい本だな」
声をかけると、オスカーは少し目を伏せて微笑んだ。
「古いものですが…」
「オスカーの星の宗教の聖典なんですよ。中身にも興味があったのですが、装丁も素晴らしかったので、無理を言って貸してもらったんです」
ルヴァの解説に、そうか、とうなずく。
女王信仰は宇宙にあまねく広まってはいるが、星ごとの文化レベルによって様々な宗教や習俗がある。守護聖に召される者も、必ずしも女王信仰や聖地の知識が行きわたった地域からのみ選ばれるわけではないので、守護聖になるまで聖地や女王のことを知らずにいた者も存在する。
サクリアが顕現すると、その力の流れのようなものが知覚できるようになるため、女王信仰になじみはなくとも厳然としてそれが事実であると理解できるようになるのだが、聖地に来るまで別の神を信仰していた者もいるのは知っていた。
「そなたは女王信仰の無い星の出身であったか」
「いえ、俺が生まれた時にはもう女王陛下や聖地について知られていましたが、古い宗教も儀式などで残っていて…特に俺の家系は古くは司祭に仕えていたので、儀式などで馴染みがあるんです」
オスカーの言葉にルヴァは
「その本はとても美しい本でしたよ。大事にされていたのが分かります」
と微笑んだ。
「聖地に来る時に妹がくれたんだよ」
「ああ…、なるほど。妹さんでしたか」
「中身だけなら同じ本を俺も持っているから、読むときにはそっちを読むんだが…、これはまぁ…きれいだからな」
(そうか、オスカーには妹と弟がいたのであった)
ジュリアスには聖地に来る前の記憶がほとんどない。母や父の顔もおぼろげだし、声も思い出せぬ。家族や故郷というものについて、他の者が感じているらしい感情や想いを、ジュリアスは共有できない。
きれいだからな、と、そう照れたようにつぶやいたオスカーの声に、ジュリアスにはわからない家族や故郷への慈しみがにじむようで、小さな胸の痛みを覚える。
「それにしてもお前、こんなに本をため込んで、ジュリアス様にまで手伝わせて…」
「あ、いや、オスカー」
ジュリアスは顔をあげ、オスカーを制した。
「私もそなたに用事があったのだ。ルヴァと廊下で行き会ったのはたまたまでな。ルヴァを責めるでない」
「は…。それは…申し訳ございません。ご用事とは…」
「うむ…いや、たいしたことはないのだが…」
なんとなくルヴァの前で要件を話すのは気恥ずかしく言い淀んでいると、ルヴァはそうと気付いたのか、コーヒーを飲み干して立ち上がった。
「いやー、さすがに重たかったので、休憩させて頂いて助かりました。これでちょっと軽くなりましたし、残りも届けてきますねー」
「あ、おい、大丈夫か? 手伝いは?」
「大丈夫ですよー。前も見えるようになりましたし。色々ありがとうございました。ジュリアスも、助かりましたよー。また面白い本があったら教えてくださいねー」
よいしょ。コーヒーをごちそうさまでした。ではー。
ルヴァはやっと肩の下ほどまでに減った本を抱えて出て行った。
オスカーはそんなルヴァに扉を開けてやり、苦笑いしながら帰ってきた。
「ルヴァは明日筋肉痛にならないといいんですが…」
「どうであろうな」
二人きりになったが、すぐには切り出せず、なんとなくデスクに置かれた聖典を眺める。
「ご覧になりますか?」
ジュリアスの視線をどうとったのか、オスカーは本を取り上げた。
「ここが金具になっていまして…」
パチン、パチンと小口の留め金を外し、本を開ける状態にしてジュリアスに渡してくる。
「ほう…なるほど美しいな」
本を受け取り表紙をめくった。
銀細工のついた表紙は少し重いが、留め金で閉めてきちんと管理されていたためか、本の中身は変色もせず、まるで古さを感じない。表紙裏と遊び紙には美しい花模様が色鮮やかに刷られ、ぐるりと祈りの言葉らしき文言が縁取っていた。
「これをそなたに贈った妹御は、良い趣味だな」
「妹の普段の趣味がどうだったかはともかく…ええ、その本はとてもきれいだと俺も思います」
あんまりきれいでもったいなくて、そっちはいつもは書棚に飾っているだけなんですよ。さっきも言ったように中身だけなら同じ本を持っているので。
「読みたいときは自分の持っている、もっと簡素なものを読んでいます。そっちは…、実はルヴァに貸すまでほとんど開いていませんでした」
「そうか…だがいい状態だ。そなたも大事にしていたのであろう」
ジュリアスはやっと本題に入る踏ん切りがついた。
「オスカー、そなたの誕生日が近づいてきたが、何か欲しいものはないか? それを聞きに来たのだ」
「ああ!」
オスカーは笑って首をかしげる。
「しかしジュリアス様、俺は今年、あなたへの贈り物をまだしておりません。それなのに俺が欲しいものを答えるのはおかしくないですか?」
数か月前のジュリアスの誕生日の前、オスカーも今のジュリアスと同じようにジュリアスに尋ねたのだ。
――ジュリアス様、何か欲しいものはございますか?
もちろんジュリアスのように言い淀んだりはせず、土の曜日に共に食事をとっていた時にさらりと聞かれたのだが。
その時ジュリアスは「特にないな」と答えたのだ。
本当に何もいらなかった。とても満ち足りて、幸せで、この上何かを望む気持ちがなかった。
――ジュリアス様は大抵の物は持っておられますし…
困りました。何を差し上げれば喜んで頂けるのか…
オスカーは大げさに困った顔をしてみせて、天井を仰いだ。
――物でなくても良いですよ。何か、俺にしてほしいことがあれば…
――してほしいことはいつもしてもらっている。
執務を手伝い、休日に訪い、共に馬で駆け、食事をしている。
――うーん…俺は本当にジュリアス様に喜んで頂きたいのですが。
――これは異なことを。私がそなたからの贈り物を本当は喜んでいないとでも言うのか?
――いえ、そういう意味ではないのですが…
オスカーは参ったな、とつぶやき、天井を仰いだ。
――いつも喜んで頂いていますし、それは疑ったことなどありませんが…
それでも、いつもあれで良かったのか、自分の贈ったものより、もっと喜ばれるものがあったのではないかという気がするのです。
――毎年、毎回、あなたに贈り物をするたびに、なんとなくそう思うのです。
それで、あなたがこれが欲しいというものを贈れば、そう思わなくて済むかと思ったのですが…
――そうですね。これが欲しいと言ったものをもらうのも、つまらないかもしれないですね。
――そんなことはない。それを欲しいと求め、それが手に入れば嬉しかろう。
だが、今私は本当に満ち足りている。
――欲しいものが思い浮かばぬ。
――…そうですか…。
しばらく考えていたオスカーだったが、「そうだ!」と手を打った。
――では今後、本当に欲しいものが見つかったり、俺にしてほしいことが出てきたら、おっしゃって下さい。
それを、あなたに贈ります。必ず、あなたの望みをかなえます。
オスカーはそう言ってグラスをあげ、おどけて「空を飛べとか、あまり無理なことをおっしゃらないでくださいね」とウィンクして見せた。
そしてジュリアスの誕生日に「これは、仮のプレゼントですからね」と念を押して、プレゼントを置いて行った。もらった乗馬用の手袋は柔らかく、手にしっとりと馴染む感触が心地良くて、それ以来愛用している。
その贈り物も本当に嬉しかったので、これ以上の贈り物などいらぬと思うのに、オスカーは時々「何か、本当に欲しいものは見つかりましたか?」と尋ねてくるのだった。
「いや、それはそれ、これはこれではないか? そなたも私の誕生日に手袋をくれたではないか。あれもとても嬉しかった。私があれ以来あの手袋を愛用しているのは、そなたも知っておろう」
「ええ」
静かなオスカーの応えのあと、しばし沈黙が降りた。
ジュリアスの指が、所在無く見返しの祈りの文句をなぞる。
「その…もしかしたら、と思ったのだ」
「もしかしたら?」
沈黙を破った、いささか唐突なジュリアスの言葉にオスカーは目をしばたたいた。
「もしかしたら、そなたの方が私から何か欲しいものがあって…それが言い出せぬので、私に本当に欲しいものを尋ねるのではないか、と」
ジュリアスの指が、今度はページの上の花をなぞる。
「…私も、いつもあなたから頂いたものは本当に嬉しく思っております」
「ああ」
オスカーはいつもジュリアスからの贈り物を喜んでくれる。使い、飾り、繰り返し嬉しいと言い、もらったものを愛おしそうに眺め、大切に扱ってくれている。
「あなたから頂いたものは、全てが俺の宝物ですよ、ジュリアス様」
「だが…他に欲しいものがあるのではないか?」
でなければ、私にしてほしいことが。
オスカーはコーヒーカップを取り上げ、音もなく飲み、デスクに戻した。カップをデスクに戻すとき、コト…と小さな音がしたが、まるで小さな獣を驚かさぬように用心しているかのように、オスカーはゆっくり、静かに動く。
その抑えられた動作に、ジュリアスは何かとんでもない間違いを犯したような気分になった。聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないか。それをオスカーに問うてはならなかったのではなかろうか。
「…なにも」
ジュリアスが目をあげてオスカーを見ると、オスカーの目線は動作と同じくらい静かにコーヒーカップに注がれていた。
「なにもございません」
その視線と言葉に、ジュリアスの心が、先程とは違う軋み方をした。
「…そうか…それならば、いいのだ…すまぬ」
何か、私自身で考えることにしよう。
ジュリアスがそう言うとホッとしたようにオスカーの肩が揺らぎ、薄青い瞳がジュリアスの方を向いて笑った。
「ええ、楽しみにしています」
オスカーの笑顔に、ジュリアスも息をつく。
「でもジュリアス様、あなたは本当に欲しいものが見つかったら、俺に教えてくださいね」
しいて言えば、それを教えていただくことが、本当に俺が欲しい物…ジュリアス様にしてほしいこと、です。
オスカーがウィンクして見せたので、ジュリアスもやっと笑うことができた。知らず緊張していた自分をごまかすように、ジュリアスは手元の本をパラパラとめくる。
「それは…なかなか答えの出にくいことであるな…あ…」
と、ページの間からはらりと何かが落ちた。本のページよりも厚みがあり、しおりにしては大きい。
「え…? なんですか?」
「すまぬ…何かはさんであったものが…」
大切な本にはさんであったのだから、おそらくは大事な物だろうと急いで拾い上げ…ジュリアスは驚きのあまりまた声をあげるところだった。
それは、一枚の写真。
一人の少女の写真だった。
守護聖は通常の社会から見ればとてつもない権力をもった者だ。星々を見守り、その力を宇宙のために使う。サクリアが満ちれば星は栄え、足りなくなれば星は滅びる。
人でありながら人をはるかに超えた力を持つがゆえに、守護聖になる者、女王や女王補佐官になるものは通常の社会から身を切り離す。
彼らはファミリーネームを抹消し、ただ名のみの存在として聖地に身を置く。
故郷の星の名前すら、主星以外は厳重に秘匿され、水の惑星や砂漠の惑星など、漠然とした言葉で表している。ファミリーネームから親族や家系を特定されたり、故郷を特定されてしまうと、どのような悪心を持った者がそれを利用せぬとも限らないからだ。そうでなくとも、守護聖所縁の地であるとなれば、何かが起こった際に、その地は特別扱いされているのではないかという故無き嫉妬心や疑心暗鬼を向けられる可能性もある。
もちろん、多くの場合守護聖になる者の家族や周囲の者はそれを知るが、大々的に送り出すようなことはない。守護聖が聖地に移る時はひっそりと…むしろこっそりと行われるのだ。
聖地に入る際、着替えや本、気に入りの道具などは持ち込むことが許されているが、家族に関するものや故郷の思い出の品などは持ち込み点数が限られる上に、厳しい制約がある。
この写真は、何…誰だ?
「オスカーこれは…」
「あ…っ!」
オスカーはジュリアスの手元を見て声をあげると、ついぞオスカーがしたことのない行動に出た。
「オスカーッ?」
オスカーは、ジュリアスの手から乱暴にその写真を奪い取ると、サッと自分の執務服の内ポケットにしまい込んだのだ。
「その…これは…っ」
思わずそれをしてしまったのだろう。胸元に手を当てたまま、オスカーは狼狽する。
「オスカー…それは…写真、だな? そなたが、守護聖になる前のものか?」
その態度に、ジュリアスの頭に浮かんでいた可能性…例えば資料としてはさまれていた付録や、オスカーとは関係のない誰かの写真である可能性は消えた。
「あ…その…俺も、ここに、こんなものがはさんであるなんて…今の今まで…っ!」
言いながらオスカーは写真の入った内ポケットのあたりを手で押さえる。
オスカーは、写真の少女を知っている。
写真は聖地には持ち込んではならぬ類のもので…オスカーの、守護聖になる前に関連する物だということだ。
「オスカー、それは…」
「あの…これは処分いたしますので!」
そう、処分せねばならぬ。オスカーの故郷にまつわるもの、しかも持ち込みが制限されている写真だ。処分すべきだ…今すぐ。
「それは…妹御が…?」
「あ…はい! そう! 妹です! あいつ、自分の写真をこんなところに…」
(嘘だ)
ジュリアスは愕然とする。
オスカー、なぜ嘘をつく? 私に知られたくないことなのか、それは。
「そうか、ならば処分する前に見せてくれぬか」
ジュリアスは静かに右手を差し出す。
「え…いや、それは…!」
オスカーはジュリアスの手から逃げるように、一歩引いた。
「なんだ? 私には家族に関する記憶というものがほとんどない。それは処分せねばならぬものだろうが…見てみたいのだ」
妹であるはずがない。ならば、誰だ、それは。
「その…これは、禁じられた品ですので!」
そうだ。禁じられている。
「そうだな。守護聖になる前の写真は、聖地に持ち込んではならぬ」
ジュリアスが守護聖になる時、母がジュリアスに家族の肖像画を持たせたいと嘆願したが聞き届けられなかったと聞いている。
絵ですら禁じられているのだ。
写真など、もってのほかだ。
「だが、それは不可抗力であろう? そなたの妹御がそなたを想ってはさんだのではないか?」
兄を想う妹が……自分ではない少女の写真を、なぜ、持たせる?
「そなたの妹の写真、見てみたい」
ああ、私も嘘つきだ…。
ジュリアスは心の中でうめく。
「そ…いえ…あの…」
オスカーの呼吸が浅い。困っている。焦っている。ジュリアスと目を合わせようとしない。
「オスカー」
ああ、ダメだ、それを言ったら、オスカーは…。私は、オスカーに…
「オスカー、それが、欲しい」
オスカーに、嫌われる。
「…は?」
「それが、私の本当に欲しいものだ」
嘘だ。
「その写真を私に渡してほしい、オスカー」
違う。…違う。だが…
(そなたが嘘をつき、そこまで隠したがる写真…)
その写真にこだわるのはなぜだ、オスカー。
いや、私か。私がこだわっているのか。
「その写真を…私の誕生日の贈り物に」
「ジュリアス様…」
オスカーは怒らなかった。
ただ赤くなり、悲しそうに顔をゆがめ、唇をかみしめる。
(今なら間に合う)
冗談だと…そんなに困るようなことではないと…私とて、家族の…家族の写真を取り上げるほど、情の分からぬ者ではないと…こっそり、その美しい本にはさんで、誰にも知られぬならば…持っていても良いと…そう、言ってやれば…。
「オスカー、そなたは言を違える者では、あるまいな」
私は、何を意地になっているのだろう。
「さあ、オスカー。それを私に」
「ジュリアス様…それは…」
「これは、無理なことではあるまい?」
「…あ…そ…」
は…と息がオスカーの口から洩れる。
ジュリアスは持っていた本を閉じた。
パン、という音に、オスカーの肩がびくりとゆらぐ。
パチン、パチン、と本の留め金を止め、オスカーに差し出した。
「オスカー、この本と、その写真を、交換だ」
「…え…」
「この本を返してほしくば、その写真をこちらによこすのだ、オスカー」
オスカーの目が見開き、驚きのあまりか、怒りにか、顔をこわばらせる。
「どうする。オスカー。持っていても誰にも非難されぬこの美しい本と、それを持っていることが知られれば、すぐに処分されてしまう写真。どちらをとる」
ああ、なんと卑怯な言いざまだろう。
「ジュリアス様…」
オスカーに呆れられる、嫌われてしまう。
「さあ、選べ、オスカー」
わかっているのに、そんなことにはなりたくないのに。
オスカーの顔がゆがむ。奥歯をかみしめ、強く目を閉じ、じっと何かに耐えるように…手が、強く胸をおさえる。…写真の上から。
オスカーの手がのろのろと内ポケットに差し込まれ、写真を取り出した。そして裏を向けて、ジュリアスに差し出した。
「…どうぞ」
言葉の端が震える。オスカーの顔はうつむき、前髪で隠れているが、その目線は決してこっちを見ていないのがありありとわかった。
ジュリアスは写真を掴んだが、オスカーが指を離したのは、二呼吸後のことだ。
「…本を」
オスカーが差し出した手に本を置いてやると、オスカーはその本を胸元に抱き寄せ、写真の代わりのように胸の上で押さえた。
「…オスカー」
「ジュリアス様」
低い声が、ジュリアスの声を遮る。
「…申し訳ございません。仕事があるので」
オスカーの視線はジュリアスを避けるようにデスクの方に注がれ…ジュリアスから目をそらせたまま、言った。
「出て行って、もらえませんか」
ああ、このようなこと、かつてオスカーが私に言ったことがあっただろうか。
ジュリアスは胸を硬く冷たいものがすぅっと滑り落ちるような感覚に襲われ、思わず息をつめた。
そのまま物も言わずオスカーの部屋を出て、自分の執務室に戻る。
この部屋を出た時には、こんなことになるなどと思いもしなかった。
少し浮き立った気分ですらあったのに。
(私は…ただ、オスカーに…)
ああ、そうだ…。オスカーに、誕生日の贈り物は何が良いか、聞きに行ったのに…。結局、オスカーの欲しいものは聞けなかった。それどころか…
――出て行って、もらえませんか。
ジュリアスは自分が意地になって、オスカーを卑怯な言葉で追い詰めてまで手に入れたそれを見つめた。
雪の原に紛れてしまいそうな白い衣をまとい、赤い帯を緩く腰に結わえた金髪の少女。
ゆるくウェーブした髪は腰に届くほど長く、頭には緑の葉で飾られた冠を頂き、その上には四本のろうそくが立てられている。たおやかな仕草で花束を抱いた右腕。左手には盆を捧げ持って、恥じらうように目を伏せて立っている。
風に揺れる金の髪。
ジュリアスの見知らぬ少女。
(オスカーが嘘をついてまで、隠したがったのは…)
昼休みの終わりを告げる三点鐘が響いた。
文官たちが戻り、ジュリアスは考えがまとまらぬまま、写真をデスクの引き出しにしまいこんだ。
その午後の仕事はジュリアスにしては遅々として進まず、何度か文官たちに気遣わし気な目を向けられた。
いつもは途中で顔を出しジュリアスに休憩を取らせるオスカーが来ず、ジュリアスはだいぶ遅い時刻になってから文官たちに休憩を取らせ、執務終了時刻には全員を帰してしまった。とにかく、一人になりたかった。
残業をするのは久しぶりだ。その日に終わらせるはずの仕事が終わらないというのも。
いつもは…オスカーが休憩にしようとやってきて三十分ほど休んだとしても、執務終了時刻にはやるべき仕事は終わっている。それにジュリアスが残業をする時には、オスカーは必ず顔を出し、翌日にまわせるものは翌日にまわそうと提案し、どうしても残業が必要だと認めた時には一緒に手伝ってくれた。
ノックが響いた。一瞬オスカーかと期待したが、
「ジュリアス」
顔を見せたのは、ルヴァだった。
「あの…オスカーが私の部屋に来たらしくて…あなたが自分の部屋に本を忘れたから、渡しておいてくれ…と…」
ルヴァは昼に返したはずの本を、もう一度ジュリアスのデスクに置く。
そういえば私はオスカーの部屋に本を置いたままであった。と、ジュリアスはぼんやりと置かれた本を眺める。
「…私の部屋に来るより、ジュリアスの部屋に行った方が早いでしょうに…わざわざメッセージをつけて置いてありました…私も色々なところに行っていたので留守にしていて…オスカーに会ったわけではないのですが…何かあったんですか?」
何が、あったのか。
何があったのだろう。
あんな、一枚の写真に、意地を張って…。
「出て行けと…」
「おやまぁ…オスカーは今度は何をしたんですか?」
ルヴァはオスカーが何かをしてジュリアスを怒らせ、ジュリアスが出て行けと怒鳴りつけたので本を返しに来られず、ルヴァに頼んだとでも思ったようだ。
「ちがう…私がオスカーに言われてしまったのだ…」
「えぇ? まさかオスカーの方があなたに出て行けと言ったんですか?」
ルヴァが驚くのも無理はない。
オスカーは…どんなことがあっても、ジュリアスにそんな口は利かない…利かなかった、今日まで。
「正確には、出て行ってもらえませんか、だが…」
「あなた方がケンカなんて…珍しいですね?」
ケンカ?
「ケンカ…なのか」
だとしたら、これはおそらく、ジュリアスが一方的に悪い。
「ジュリアス…何があったんです?」
ジュリアスはそれには応えず、引き出しを開けた。
写真の中の少女は、ジュリアスと目を合わせない。今日のオスカーのように。
ジュリアスは写真を掴み、立ち上がった。
「ジュリアス?」
そのまま小走りに部屋を出、オスカーの執務室に向かう。
「オスカー!」
ドアをノックする。応えはない。
「オスカー、私だ」
ドアに手をかけると鍵はかかっておらず、するりと戸が開いた。
「オスカー…」
部屋の中は、がらんとして人の気配がなかった。
きれいに片付いている。
コーヒーカップも、ルヴァが返した本もない。
何もかも、まるで最初から誰も使っていなかったかのように…。
(あ……)
その中で、デスクの上にポツンと置かれている物があった。
正式の炎の守護聖の印でシーリングされた書状と…あの、美しい装丁の聖典。
ジュリアスは写真を置き、書状を取り上げて封をはがす。
オスカーの印が割れ、赤い封蝋がパラパラと音を立ててデスクに落ちた。
「…なぜ…っ」
思わずつぶやき、ジュリアスは唇をかみしめる。
書状には、先に報告した星域の戦況が思わしくないこと、緊急事態が起こったのでオスカーも向かうことなどが簡単に記してあった。
(大丈夫だと言ったではないか…!)
手紙には報告をしに来た隊員が戻るのに合わせて一緒に行くことにしたので急ぐこと、時間がないため出張に関する書類はジュリアスの承認印を待たず出るが、女王には承認を取ってあるので許してほしいことなども書いてある。
手紙には出張手続きの書類も同封されていた。
書類は完璧で、後はジュリアスが首座の承認印を押し、サインを入れればいいだけになっている。
「ジュリアス…?」
振り返るとルヴァが戸口からこちらを見ていた。
「ジュリアス、大丈夫ですか? それは…」
「オスカーが…行ってしまった…」
ぼんやりとつぶやくジュリアスから、ルヴァは「失礼」と手紙と書類を取り上げ、内容に目を通す。
「ああ、そういうことでしたか…本当にお急ぎだったんですね…それにきっと報告やなんかであなたの仕事の手を止めるのをはばかったんですよ…」
いや、顔を合わせたくなかったのだ。ジュリアスがオスカーと顔を合わせづらかったのと同じように。
「今週頭にオスカーが報告していた星域ですか…なら、距離は割と近いですよね…時間軸は主星域と大して変わらないから…ああ、それでちょっと時間がかかるんですねぇ…まぁ、炎のサクリアは今のところ問題ないので、一週間くらいオスカーがいなくても大丈夫でしょうが…この時間だと…もうシャトルは出ていますねぇ…」
出張の旅程は一週間以上。
主星域に近い星域で起こった騒乱だからこそ早期の鎮静化が望ましい。だからオスカー自らが出向くことにした。筋は、通っている。使いで来た軍部の者と行動を共にするために急いで出かけたことも。だが…
「ジュリアス、顔色が悪いですよ、ジュリアスッ?」
しゃがみ込んでしまったジュリアスにルヴァが声をあげる。
「オスカー…私は、こんなもののために…そなたを…」
そなたを失うのは、嫌だ。
どうしたらよい? どうすればそなたは戻ってきてくれる?
「ジュリアス! ジュリアス大丈夫ですか?」
「ルヴァ? こんなトコで何してんの?」
「あ、ああーオリヴィエー…」
オリヴィエ…ああ、ルヴァの声が廊下までもれたか…。
「ジュリアス? ちょっと、どーしたのさ?」
「わ、私にもわかりません…オスカーが…」
「オスカー? あいつがなんかやらかしたの?」
オリヴィエ…違う。悪いのは、オスカーではない。
「ジュリアス。アンタ体調でも悪いのかい?」
黙って首を横に振るジュリアスの肩に、オリヴィエの手がかかった。
「ああもう面倒だねぇ! 何でもないって様子じゃないよ。とにかく立ちな!」
オリヴィエが乱暴にジュリアスの脇に腕を差し入れて引っ張り、呆けている光の守護聖を無理やり立ち上がらせる。
「オリヴィエ…そなた…なぜまだいるのだ…」
「ルヴァが返してきた本をつい読んじゃったんだよ。そんでこの時間」
帰りかけてたところにルヴァの声が聞こえたから覗いたんだ。
「来な。ルヴァもついといで。それ書類? ジュリアスの?」
「ああ、ちゃんと持っていきます」
引っ張られたのか押されたのか、ぼんやりとしたまま、ジュリアスはオリヴィエとルヴァに連れられて自分の執務室に戻った。
「アンタが元気だと口うるさくてかなわないけど、アンタがしょげてると気持ち悪いよ。ちょっとシャッキリしなって」
座って。あーッたくアンタの部屋ってお茶淹れる道具も最低限なワケ? 普段休憩してないの? んもー…しょうがないねぇ…待ってな。
ジュリアスをソファに座らせ、主の許しもなく勝手に戸棚を開け閉めしたオリヴィエは文句を言いながら出ていき、帰ってきた時にはトレイにティーセットを一揃いのせていた。
オリヴィエがティーセットを用意していた数分の間ジュリアスは身動き一つせず、ルヴァはそんなジュリアスの隣に座り、なだめるようにジュリアスの腕をさすっていた。
「ほら、お茶。こっちは今日リュミちゃんがくれたハーブクッキー。美味しいよ。お茶飲んでちょっと甘いものおなかに入れて落ち着きな」
口調はつっけんどんだが、その内容と茶器や菓子を差し出すオリヴィエの手つきは優しい。
ジュリアスはのろのろとカップに手を伸ばした。
「何があったんだい? ジュリアス。 オスカーが何かした?」
ジュリアスが無言でいることの言い訳のようにカップに口をつけたが、オリヴィエもルヴァも相手の沈黙を待てる人間だ。
この状況で一番沈黙に耐え得ないのは、ジュリアスだった。
「…違う」
「何が」
「何かしたのは、オスカーではない。私だ」
「じゃあ、ジュリアス、アンタはオスカーに何をしたのさ?」
ジュリアスはポツリポツリと今日の出来事を話した。オスカーの本に写真が挟まっていたと言うとオリヴィエは驚いたようだが、ルヴァは「ああ」とうなずいた。
「妹さんの写真ですよね」
そうか、とジュリアスはルヴァの顔を見る。
ルヴァはあの本を読んだのだ。ならば写真にも気付いたはずだ。
「…そなたも、あれを、見たのか…」
「ええ。読んでいたら出てきましてねぇ…。今日オスカーがあの本は妹さんからもらった本だとおっしゃったので…」
――ああ…、なるほど。妹さんでしたか。
ルヴァの声がよみがえる。あの時はなんでもないあいづちだと聞き流していたが、ではあの時ルヴァは写真のことをわかっていたのだ。
「写真は…聖地への持ち込みが制限されている品で…」
「ああ…そう言えば、そうでしたねぇ…」
ルヴァは穏やかにうなずいた。
「うっかりしていました…。ちょうどその部分だったので、これがそうなんだと思っただけで戻してしまったんですよー」
「…ちょうど…その部分…とは?」
「聖アルジアの殉教ですよ。布教する中で迫害されて、目をくりぬかれて殺されたという女性です。あの本は注釈も豊富で、巻末には聖人の祭りについても解説してありましてね。オスカーの故郷では、ちょうど今頃に聖アルジアの祭りがあるんです」
目をくりぬかれた聖アルジアは、目や光、乙女の守護聖人となった。その記念日には、聖アルジアが殉教したのと同じ年頃の少女が白いローブに赤い帯をまき、歌を歌ったり、家々にランタンを持って行ったりという祭りがおこなわれる。純潔を示す花束や自らの目を捧げ持たされたという逸話から盆や足つき台を持ち、頭には永遠を表す常緑の葉でできた冠を頂き、そこには光を示すろうそくが立てられる。
「年末でもありますので、新しい年が来る、という喜びもあるのでしょうね。広く行われている祭りだそうですよ」
「…そうか…」
そういう資料の一つだと思って流すこともできたものだったのだ。
「私も…あの本をオスカーに見せてもらって…写真が落ちたのだ」
落ちた写真。ジュリアスの手から真っ赤になって写真を奪ったオスカー。
オスカーが写真をジュリアスからひったくったと聞いて、オリヴィエもルヴァも驚いた顔をする。
「そんなに見られたくない写真なの?」
「妹さんだと気付いて焦ったんですかねぇ?」
オスカーは真面目ですから、自分が気付かずとは言え、持ち込みを禁止された家族の写真を持っていたと知ったら慌てるかもしれないですね?
ルヴァの言葉に、ジュリアスは首を横に振った。
「あれは…オスカーの妹ではない」
「は?」
「え? なんでアンタにそんなことわかんの?」
ジュリアスは手の中のカップを包み、紅茶の表面に何か適当な言葉が浮かびはしまいか、とでも言うように見つめる。
「首座の守護聖は、守護聖の交代時に、誰よりも早く…そして詳細な次期守護聖の調査書を読む」
しばしの沈黙の後、これは大変な極秘事項だから二人とも漏らさないでほしい、と前置きをしてジュリアスは話しだした。
「守護聖として聖地に連れてくるのに、例えば親族に女王に対する反逆心をもった者などがいたら、その者にも女王にもどんな危険があるかわからない。我々は女王の身を守らねばならぬ。悪心を持った者がそばにいて、その者が守護聖になることを知り、その者の荷物に爆発物や毒物を仕込んだり、守護聖になる者とわかっていながら殺害するということが起こらないとも限らない」
実際、過去に聖地に連れてこられる前に親族に殺された守護聖候補の記録も残っている。だから、次期守護聖についての身辺調査は極秘に、素早く、そして詳細に行われる。女王と首座には、その報告が来る。
「首座はそれを読んで判断をし、その者の連れてくる方法を指示する」
周囲の者が善良で聖地に対して肯定的であれば正面から迎えが遣わされ、穏やかに連れてこられる。もし少しでも危険な者の影が見えるようであれば、事故に見せかけたり行方不明になったかのように偽装して連れてくる場合もある。
「今の守護聖の者たちは皆、運良く穏やかに連れてこられているが、過去にはほとんどさらうように連れてこられた守護聖もいたのだ」
「…聖地って、ホント…聖地や女王のためならあくどいことを平気でやるよね…」
呆れたように言うオリヴィエにジュリアスは小さく笑う。
「そう言われても仕方ない。だが時に誘拐まがいであろうとも、宇宙の為に、そして守護聖になった者自身を守るためにも、それが必要なこともあるのだ」
話しを戻すが、だから私は、オスカーの妹の顔を知っている。
ジュリアスは紅茶のカップを置いた。オリヴィエは黙ってそのカップに新たな温かい紅茶を注ぐ。
「…でもジュリアス…あの写真は、顔のアップでもなかったですし、顔がまっすぐこちらを向いていたわけでもないでしょう…それで、わかるものですか?」
「わかる」
ジュリアスは短く言いきった。
「オスカーの妹とは…骨格が違うとでも言えばいいのか…。とにかく、あの写真の少女は、違う」
「アンタたちの言うその本と写真っての、アタシにも見せてよ」
それでしょ? と、オリヴィエがルヴァの横をあごでしゃくる。先ほど部屋からルヴァが持ってきた書類と、オスカーの本が置いてあった。
「ああ…すまぬ……」
ルヴァに書類や本を持ってこさせたことに気づいたジュリアスが小さく謝罪し、ルヴァは「気にしないで下さい」と微笑んだ。
「写真は私がオスカーからもらったが、本はオスカーのものだ。大事な本であろう。ちゃんと後で元に戻して…」
「写真をもらった…?」
オリヴィエの声にジュリアスはうつむいた。
「…無理やり、もらった。だから…」
「無理やり…ってどういうこと?」
仕方なく、オスカーとのやり取りを伝える。オスカーが夏の頃から、ジュリアスに「本当に欲しいもの」「本当にしてほしいこと」を聞き続けていたことも含めて。つまびらかに。
その間にオリヴィエはルヴァから本を受け取り。
「はぁーん…たーしかにアイツが持ってるモノにしちゃいい趣味だわ。妹さんねぇ…ふぅん…」
オリヴィエは透かし細工を確かめながら言う。
「しかもこれ、本物の銀だよ。でも黒ずんでない。ってことは手入れし続けてたんだろうね。読んではなくても、大事にはしてたってことか」
そんな大事な本を、写真欲しさに人質にとるような真似をしたのだ…とジュリアスはぼそぼそとつぶやいた。
「そんなに落ち込まないでよ、ジュリアス。アタシは今どっちかっていうと感動してるよ。アンタもそういうことするんだね」
人間らしくていいさ。まぁ、間違ってたかもしれないけど、人間は間違うものだからね。
「で? これがくだんの写真だね…」
オリヴィエは写真を取り上げ「あれ?」と言った。
「…これ…」
そしてなぜか、だんだんと唇の端に力が入っていき、最後にはにやりと笑った。
「なーるほどね…オスカーの妹じゃない。ふんふん。ジュリアス、アンタ…」
楽しそうな上目遣いでジュリアスを見つめる。
「妹さんじゃないなら、これは誰だと思うんだい?」
「…わからぬ」
「わからないってことはないだろ? じゃなかったらアンタがそんな意地張ってまでコレを手に入れるはずがない」
ルヴァは「ああー」と手を打った。
「妹さんの本に、妹さんじゃない写真が入ってたってことですもんね? オスカーはそれを知らなかったんだとすると、はさんだのは妹さんだってことになりますねぇ…。でも、オスカーの全く知らない人だったら、オスカーがそこまで慌てることも無いだろうと、そういうことですよね?」
「そうだね」
オリヴィエは楽しそうだ。鼻歌でも歌いだしそうな調子でルヴァの推察を肯定する。
「妹さんのお友達か、御親戚か…妹さんが写真を手に入れられて、オスカーも知っていて、なおかつ、オスカーが慌ててジュリアスの手から奪い取ってしまうような関係性の人物…ってことですね?」
「…オスカーの…恋人、だったのでは、ないかと…」
オリヴィエはうんうんとうなずく。
「ジュリアスもちゃんとそういう方向に頭が回るんだねぇ…」
「失敬な」
「いや、なぁんかそういう方向にアンタの思考が回らなさそうな気がするんだよね…」
「私とて木偶人形ではないのだぞ、オリヴィエ」
ジュリアスの複雑そうな声と目線を、華やかな夢の守護聖はひらひらと手を振っただけでいなした。
「で、これがオスカーの恋人だったとして、なんでアンタはそんなにこれが欲しかったんだい?」
「わからぬ。……本当に、わからぬのだ。オリヴィエ」
なんであんなにムキになったのか。なぜあのようにオスカーを追い詰めてまでこの写真を奪いたかったのか。自分でもわからない。今もわからない。
「ただ…オスカーが…」
オスカーが、それを持っているのが…なんだか…。
「なんだか、嫌だったんだね」
オリヴィエの言葉に、ジュリアスは手で顔を覆い、深々としたため息をついた。
「…そう…かもしれぬ。…いや…どうなのだろう…」
「なりほどなるほど」
「一瞬、見た時に…」
オスカーに奪われる前。
その少女の写真を目にした時、自分でも思わぬことではあったが…
「…私は、その写真の少女に、とても惹かれたのだ」
ひかれた? とジュリアスの言葉を繰り返すオリヴィエに、ジュリアスは小さくうなずく。
「美しいと、思った」
それは何かが胸を刺し通したような痛みであると同時に、震えが来そうなほどの…喜びでもあった。
「その少女がオスカーの恋人であっても不思議はない」
とても魅力的な少女だと思う。と、ジュリアスは言う。ルヴァも
「雪の中の赤い帯や緑の冠は映えますしねぇ」
確かにその子を好きになる男子はたくさんいそうですね、と肯う。
「そうだね。土台もいいし、化粧もきれいにしてある。衣装とか雪の原の中っていうシチュエーションを差っ引いても、きれいだね」
アタシの方がきれいにしてあげられるとは思うけど。
「ところでさ」
オリヴィエはひらひらと写真を振ってみせた。
「……この格好、ジュリアスに似てるね」
「そうですね」
ルヴァがうなずいた。
「長い金髪に白いローブですからねぇ…」
それに聖アルジアは光の守護聖人だそうですから、正にジュリアスですよねぇ…。
「もし…それが、オスカーの恋人だったとすれば…」
ジュリアスは顔を覆ったまま言った。
「もしかして、私と親しくしてきたのも…オスカーにとっては、私は、その少女の…代わりだったのだろうか…」
「ジュリアス、それは考え過ぎですよ」
ルヴァが驚いたように言う。
「だが…」
「確かめてみればいいじゃないか」
ルヴァは驚いたようにオリヴィエを見、ジュリアスは顔をあげた。
「ジュリアス。アンタたちが気まずいことになったってのはわかった。でも落ち着いて考えてみなよ。確かにアンタの言うように、オスカーがアンタと顔を合わせたくなくてわざわざ必要のない出張を入れて逃げたのかもしれないけどさぁ、アイツだってそんだけの理由で無意味にここを留守にはしないよ。アイツが真面目なの、アンタならよく知ってるよね?」
「…無論」
「オスカーはあと一週間もすれば帰ってくる。それまでに準備して、アイツに確かめてみればいい」
任せときな。
「たまたまとは言え関わっちゃったからね。最高の演出で、アイツの本音を聞けるようにしてあげる」
オリヴィエは写真を唇にあて、ウィンクをした。
「…これは…」
オスカーは聖地の門をくぐり、驚きに棒立ちになった。
「おい! 何があった? 女王陛下に何か…」
「オスカー!」
慌てて門を守る警備の者に問いただすオスカーを呼び止めたのは、女王補佐官のロザリアだ。いつもの補佐官のドレスの上に、毛皮で縁取られた暖かそうなマントを羽織っている。
「ロザリア…これは一体…」
オスカーは周辺の銀世界を見回した。しかも、まだ雪は降り続いている。
聖地は常春。多少の変動はあるが、雪など久しぶりだ。前に雪が降ったのは、先の女王が即位して間もなく、まだ力が安定していない時期の事だった。
「大丈夫、陛下に何かあったわけではありませんわ」
おかえりなさい、オスカー。
「たまには雪もいいものでしょう? 久しぶりに雪が見たいと何気なく申し上げたら、陛下がサービスしてくださいましたの」
女王補佐官の笑顔にオスカーもやっと微笑んだ。
「そうか…一週間ぶりに帰ってきたらこれだから、驚いた」
「寒いのはお嫌い?」
「いや? 寒いときには手をつないだり抱きついたりする口実ができるからな」
「相変わらずですわね」
ころころと笑う補佐官に促され、オスカーは歩き出す。
「今日は週末ですしこの天気ですから、全員午後休ですの」
「…聖地で、天候を理由に仕事が休みになるとは…よくジュリアス様がお許しになりましたね?」
オスカーが笑うと、ロザリアは「陛下が雪遊びがしたくてほとんど仕事になりませんの。この午後は王宮のお庭でランディやマルセルと雪合戦ですわ。ゼフェルも雪像を作ってやるって張り切ってますし、楽しみですわ」と言う。
「陛下とジュリアスに報告をしたら、あなたももう帰ってもよろしくてよ。よく休んでくださいな。今回はシャトルでの移動でしたし、お疲れでしょう」
「いや…なんでもないさ」
オスカーは答えながら、ロザリアが前だけを見て歩いてくれることに感謝した。
ジュリアスに報告、と言われた瞬間に顔がこわばったことには気づかれなかっただろう。
(…あの写真は、どうされたかな…)
あんなに慌てる必要はなかった。落ち着いて、こんなものがはさまっているとは知らなかったとだけ言えば、ジュリアス様だってあんなに意固地になったりしなかっただろう。何事もなく処分することもできたはずだ。
それなのに思わず慌てたせいで不審に思われ、結局、写真を渡す羽目になってしまった。
(俺もまだまだだな…)
でもこんなに時間がたってから、またあの姿を見ることになるとは、思わないじゃないか。
(いつからはさんであったんだろう)
元々あの聖典は本当に妹が使っていたものだ。その前は母の物だった。昔妹が学校で首席を取った時に、母が嫁入り道具だったあの聖典を贈ったのだ。だから、妹があれを聖地に持ち込む品に入れてほしいと言ってきた時、一度はやめておけと言った。嫁入り道具にも入れられる立派な聖典を、俺に渡すことはないと。俺は父から贈られた剣があれば十分だからと。
だが…最後は押し切られた。
代わりにオスカーは守護聖準備金の中から、妹のために新しい聖典を誂えた。同じように留め金の細工を施した、新しい聖典を。妹は…あの聖典を持って嫁いだだろうか。
(ああ…色々思い出すな…)
あの写真…いつからはさんでいたのだろう。なぜはさんでいたのだろう。
愛情か。いたずら心か。
うっかりはさんでいたことを忘れてオスカーに渡したのか、わざとこっそり仕込んだのか。
問いただそうにも、もうとっくに妹はこの世に存在しない。
守護聖になる前に愛していた者は、皆時の彼方だ。
それでも…
(思い出すなぁ…こんな雪だと…)
――きれいね! とってもきれいね! お兄様。
雪の中目を輝かせていた幼い妹。弾んだ声。
(ああ…俺はまだ、覚えてる)
あの声を。あの姿を。
そのことに思い至り、オスカーはふと泣きそうな気分になる。
――なんだ? 私には家族に関する記憶というものがほとんどない。それは処分せねばならぬものだろうが…見てみたいのだ。
ジュリアスの持っていないものを、オスカーは持っている。
ジュリアスが本当に欲しいと思っているのは、あの写真ではなく、このようにオスカーの中にあるものなのだろう。はるか昔に失ったはずの愛おしいものを思い出せること。家族や、友人。聖地に来る前の思い出。
それは…誰にも与えられない。
どんなにジュリアスが欲しようと、オスカーが望もうと、決してジュリアスのものにはならない。
ジュリアスが本当に欲しいものを知りたかった。
それを知ったら、どんなものでも贈るつもりだった。
でも…それは思い上がりでしかなかったのだ。ジュリアスの本当に望むものを、オスカーは労せずして持っているものを、どうやっても相手に贈ることはできないのだ。
今回のことは、その罰なのだろう。
オスカーはロザリアに促されて謁見の間で今回の出張について報告しながら、どういう顔でジュリアスに会えばよいかと胸の内でため息をついたのだった。
「…ジュリアス様…?」
ノックに応えがないので扉に手をかけると、扉は音もなく開いた。
執務机の背後にある窓から、降りしきる雪が見える。
だが、その手前に座っているはずの人物はいなかった。
ロザリアは皆午後休だと言ったが、オスカーが来ることが分かっているのにジュリアスが帰るはずがない。オスカーは驚いて窓の外に降る雪を見つめる。
視線をずらしてデスクの上を見ると、ジュリアスの印章で封がされた手紙が置いてあった。
オスカー宛てのその手紙を開くと、ジュリアスの筆跡で簡潔にジュリアスの私邸に来るようにと書いてある。
聖地で育ったジュリアスにはこの雪は寒すぎたのかもしれない。よもや体調でも崩されたのではあるまいかと、オスカーは慌てて執務棟を出た。雪の中馬を駆ると、ほほに当たる雪は切るように冷たく、オスカーは不安が胸元で膨らむのを感じた。
ジュリアスの館に着き、厩番に馬を預けるのももどかしく「ジュリアス様はどちらに」と尋ねると、執事は「雪がおめずらしいのでしょう。お庭にいらっしゃいます」と答えた。
ジュリアスが体調を崩しているわけではないとわかって一旦は安堵したが、それでもジュリアスが庭に出ていると聞いて慌てて探しに出る。
(ああ、でもどんな顔をしてお会いすればいいのか…)
いや、もし顔が多少こわばったとしても、今なら寒さのせいにできるだろう。
そう考えながら庭の奥まった場所に来たとき、ジュリアスの後姿を発見した。
「ジュ…」
名を呼ぼうとして、オスカーの声は喉の奥に詰まった。
「オスカー」
振り返ったジュリアスの金髪が風に揺れ、白いローブの裾がはためいた。
頭には常緑の葉で飾られた冠。腰には雪の中に映える赤い帯。
聖アルジナ。
立ち尽くすオスカーに、ジュリアスはふ、と微笑んだ。淡く口紅が塗られた形の良い唇が開き、凛とした声が響く。
「いと高き者のもとなる隠れたる所に住まうその人は、全能者のかげに宿らん」
オスカーはジュリアスの挑むような眼を見つめ返した。
吐いた息が白く流れていくのを見、オスカーも口を開く。
「われ主のことをのべて、主はわが避け所、わが城、我がよりたのむ神なりといわん」
これは、聖典の交読文だ。
聖典を二方に分かれて交互に読む、祈りの形式。
「そは神、汝を猟人のわなと毒を流す疫病より、助けいだしたもうべければなり」
ジュリアスの応えは迷いがない。
これはオスカーの星の古い宗教の聖典の言葉なのに、ジュリアスの声の方が堂々としていた。
「そはいと高き者、汝のためにその使いたちに仰せて、汝が歩むもろもろの道に汝を守らせたまえばなり」
雪が降る。
「彼ら手にて、汝の足の石にふれざらんために、汝をささえん」
雪が降る。二人の間に。
「汝は獅子とまむしとをふみ、若き獅子と蛇とを足の下にふみにじらん」
ジュリアスの白い衣が雪の中に溶けそうだ。赤い帯と緑の冠が鮮やかに雪に映える。
「彼その愛を我にそそげるがゆえに、我これを助けん」
ジュリアスが一歩オスカーに近づいた。
「彼わが名を知るがゆえに、われこれを高き所におかん」
オスカーもつられるように一歩前進する。
「彼、我を呼ばば」
「我、答えん」
「我その悩みの時に共におりて」
「これを助け、これをあがめん」
もう手を伸ばせば触れられる。
「我長き命をもて彼を足らわしめ」
「かつわが救いを示さん」
「オスカー」
ジュリアスが名前を呼ぶ。
「オスカー、そなたの写真を返す」
すまぬ。これは本当に欲しいものでは、なかった。
オスカーはジュリアスが差し出した写真を見つめる。
「オスカー、この少女は…」
そこまで言って、ジュリアスは一つ頭を振った。
「オスカー、私の側にいてくれ」
この少女と、私を比べていてもかまわない。少女の代わりでもいい。…今は。
「それでもいい。私の側にいてくれ」
黙っていなくならないでくれ。
「それが私が本当にしてほしいことだ、オスカー」
大切な写真をそなたから奪うような真似をして、すまなかった。
「これは返す。あの美しい本にはさみ、黙っていればよい。そなたの思い出を奪うつもりは、ないのだ」
お互いに手を伸ばせば触れられる距離になった二人の間に、雪と、沈黙が降った。
と…ジュリアスが見つめる中でオスカーの左手が顔を覆い…オスカーは笑い出した。
「オスカー…?」
「ジュリアス様」
いぶかるジュリアスにオスカーはああ、と息をつき、笑いすぎて潤んだ目で笑いかける。
「なんで俺がその写真の人物とジュリアス様を比べたりすると思ったんです?」
ジュリアス様、俺はその写真を焼いてもらったっていいんです。
「俺にとって大事なのは、ジュリアス様、あなたの方だから」
比べるまでのなくあなたの方が何倍も大事です。
「あなたの側に、いさせてください」
それが俺の本当の望み。
「あなたの側にいられる権利…それが俺の本当に欲しいものだったんです」
ジュリアスはポカンとオスカーを見つめた。
「…だが…この、写真は…オスカーッ! 何を…」
オスカーはスッとジュリアスから写真を受け取り、止める間もなく二つに折る。
「なんでアイツ、こんなもの挟んでたのかな…。もう今となってはわかりませんが」
「これは…そなたの大切な相手ではないのか」
「俺の?」
オスカーはクスっと笑う。写真はオスカーの手の中で四つ折りになった。
「…そうですね、妹は大切に思っていたかな…」
オスカーはつぶやき、折りたたんで小さくなった写真を握りこむ。
「そなたの…恋人ではなかったのか?」
ジュリアスがそうつぶやくのに、オスカーはまた小さく笑いを漏らした。
「いいえ。違います」
「本当に?」
「ジュリアス様、俺はこういうことで嘘はつきませんよ」
「オスカー…」
ジュリアスがオスカーに腕を伸ばしかけた。その瞬間。
ブッハー!っという、雰囲気ぶち壊しの声が聞こえた。
オスカーがギョッとしてその声のした方を見ると、物陰からオリヴィエが現れた。オリヴィエだけではなく、ルヴァも。オリヴィエもルヴァも、雪の中に隠れるためか、白いロングコートを着ている。
「な…え……あっ! うわぁぁぁぁぁ!」
一瞬思わぬことに混乱しかかったオスカーだったが、色々なことに気付いて顔を覆って真っ赤になった。
ジュリアスが自分でこの格好を用意するだろうか。
ジュリアスは薄く化粧までしているのだ。その段階で気付くべきだった!
「あー…本当に…ジュリアス、アンタ本当に気付かないんだね?」
ルヴァも、まだわかってないよね?
「オリヴィエ! 言うな!」
オスカーが顔を覆ったまま怒鳴る。
「それ…その写真」
「やめろっ!」
「それ、オスカーじゃないか!」
「わぁぁぁぁ!」
オリヴィエの発言に、オスカーが雪の中にくずおれる。耳がオスカーの髪に紛れそうなほどに真っ赤だ。
「……オスカーッ?!」
ジュリアスとルヴァが同時に叫び、オスカーはますます身を縮める。
「ジュリアスってば…骨格が違うとこまで看破したくせに、なんで分かんないかなぁ…」
ひぃひぃと笑いながらオスカーに近づき、しゃがみ込んでバンバンと背中をたたく。
「アンタ…オスカー、あれ、何歳の時さ?」
「……十四歳…」
「かーわいかったんだねぇーえ? 超上手に化粧してあんじゃん。この頭はウィッグ? いやー違和感ないよねー」
「本当に。私は全然わかりませんでしたよー。普通にきれいな娘さんだと思ってましたー」
「好きでやったんじゃない!」
ルヴァの言葉に、オスカーが泣きそうな声をあげる。
「この年は病気が流行って、うちの地域のこの役やれる年齢の女子が全滅したんだ!」
年下か年上の女の子の中から選ぶか、同じ年の男の子の中から代役を立てるかでちょっとした論争になった。
「でも聖アルジナの役は女子の間では人気だから…」
年上の少女たちの間でも、年下の少女たちの間でも、なんと病床にいるその年アルジナが選ばれるはずだった少女たちの間でもケンカ騒動が起こった。結果、その年アルジナができなかった女の子たちが病床から「私達以外の年齢の女の子を選ぶことは許さない。男の子だったら許す」という、嘆願書と言うよりは脅迫文を祭礼の実行委員会に送り付け、実行委員会が選出したのがオスカーだった。
「母が地区の聖堂の役員だったから断り切れなくて…」
最後はぼそぼそと言い訳をするオスカーに、ジュリアスはしばし呆然とし、そして真っ赤になった。
「お…オリヴィエッ…そなたは最初からわかって…!」
「当たり前だよ。アタシを誰だと思ってんのさ」
オスカーの過去に嫉妬するジュリアスがあんまりかわいいもんだからさぁ。
「し…嫉妬など…」
「してたしてた」
「あー…してましたねぇ」
「しておらぬ!」
「だってアンタ、それ、オスカーの恋人の写真だと思って取り上げたんだろ?」
自分の好きなヤツが過去の恋人の写真を後生大事に持ってると思ったら嫌だったんだよね?
「…好きな…え?」
オスカーがほんのわずかに手の間から顔をあげる。
「オスカー! 聞くな!」
「オスカー、良かったじゃないか? アンタもアンタだよ。ジュリアスの一番欲しいものが贈りたいんじゃなくて、他の誰より一番喜ばせたいんだって素直に言やぁいいのにさ?」
まったくアンタたちときたらじれったい。
「まぁ、それはそれで楽しいけどね? アタシはそんなことで誰かがしょんぼりしてるのは見たくないんだ」
最後はからかいの色を引っ込めて真剣な声で言うオリヴィエに、オスカーは小声で何か言った。
オリヴィエはそれにただ微笑むことで応え、「さぁて」と立ち上がる。
「寒いねぇ…ルヴァ、陛下の雪合戦を観戦しに行こうよ。リュミエールとクラヴィスも行ってるはずだし」
せっかく休みになったんだ。行こう行こう。
「じゃあねーオスカー。ジュリアス、楽しかったよ」
オリヴィエがルヴァを引っ張るようにして去ると、辺りは一気に静かになった。
雪は音を吸い込み、ただ二人の呼吸だけが白く雪の間を昇っていく。
「……オスカー」
先に沈黙を破ったのはジュリアスだ。オスカーが顔をあげると、ジュリアスは立ち尽くしたまま、目をオスカーからそらして言った。
「側にいてくれるか」
「いつでも」
まだ幾分赤い顔のままオスカーは立ち上がり、ジュリアスの冠に積もり始めた雪を払う。マントを外してジュリアスの肩に羽織らせようとしたとき、ジュリアスがオスカーに抱きついた。
「ジュ…!」
「オスカー、黙っていなくならないでくれ」
出て行けと言われ、いつの間にかそなたが出発していたと気付いたとき、あのままそなたがいなくなってしまう気がして、本当に…。
「恐ろしかった…」
そなたを失うかもしれぬということが、こんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
「申し訳ございませんでした。でも、本当に緊急だったんです」
あの時、確かに写真の事で取り乱してはいましたが、あなたに本を渡された瞬間に、軍部からの緊急通信が端末に入ってきたんです。
しかも極秘で動いていた諜報部隊からの報告で、とにかくジュリアスを部屋から出して報告を読んだ。ただ膠着して長引いているだけだと思われていた裏に別の惑星同士の商業戦争が絡んでいることが分かった。しかも兵器を大量に売りつけたあげくに星を乗っ取る計画まであるという。
「そいつらはそこを拠点に、主星域まで覇権を広げる思惑があった。俺が出て行って、一気に叩くしかありませんでした」
大丈夫。ちゃんと納めてきました。
「…詳しい報告を?」
「ああ……聞こう」
だがその前に。
「もう少し、このまま」
ジュリアスはオスカーを抱く腕に力を籠める。
オスカーも雪がかからぬようにマントをジュリアスの肩に羽織らせ、その上から腕を回した。
「…そなたはあたたかいな」
そなたがいれば、私は満ち足りていられる。
「欲しいものも、してほしいことも思いつかなかったのも無理はない。そなたに聞かれた時、私はすでにそれを持っていたのだ」
オスカーからの愛情。オスカーと共にいる時間。
私の側にいてほしい。黙っていなくならないでほしい。
「今回のようなことがあっても、心はいつもお側に」
オスカーも腕に力を込めた。
「…聖アルジナの祭りは、冬至の直後に行われます」
オスカーがジュリアスを抱きしめたまま言った。
「この祭りが過ぎると日がだんだん長くなり、春が来る」
だから、聖アルジナの祭りの聖歌が聞こえてくることを、こうも言います。
「春聞こゆ」
春が聞こえる。春を呼ぶ声が聞こえる。
「…聖地はいつも春だ」
「そうですね、でも今は…」
春が来る喜びを、あなたと共に。
「ヤッホー、始まってる?」
「あら、お早いお着きですこと。まだ準備中ですわ」
片手をあげてあいさつするオリヴィエに、ロザリアはティーカップを置いて微笑んだ。
「あら…ルヴァは一緒ではありませんの?」
「ルヴァならさっきあっちのグループに引っ張られていったよ」
オリヴィエは背後を指さした。
女王宮の広い中庭で、ランディとマルセルがルヴァの腕を取り、何やら真剣に話し合っている。チーム分けとか戦略という言葉が聞こえてくるところを見ると、ルヴァは強制的に雪合戦に参加させられるようだ。
そこから少し離れたところでは、ゼフェルが黙々と雪を積み、水をかけ、削るという作業をしている。その隣にはリュミエールも同じように積み上げて固めた雪を削っていた。
「おい、そんな細かく削ると重さでつぶれっぞ」
「心配御無用です。わたくしの像はあなたのものよりうんと小さいですから。ゼフェルこそそんなに高く積み上げて…足元に気を付けてくださいね」
「ケッ、小せぇ像造ったって面白くねぇだろうが。俺はどーんとデッカイの造ってやるぜ!」
どうやら、あの二人はそれぞれに雪像を建てようとしているようだ。
中庭の隅に天幕を張り、それらを眺めながら優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいる恋人に、オリヴィエは「やれやれ、寒かった」と言いながら近づき、ほほにキスをする。
「本当に、唇まで冷たくなっておいでですわね」
お茶を淹れますからお座りになって。
言って、手ずから紅茶を淹れ始めた。
天幕の三方には光を通す薄い布地が何枚もかけられ、風を遮っている。布自体が外の光を反射しているため淡く光る壁があるようなもので、中は柔らかな光で満たされていた。保温効果も高く、骨組みが暖房の機能を持っている特別天幕は、一面が開いていても屋根の下はとても暖かい。
その暖かい中で、女王補佐官はまだドレスの上にマントを羽織っていた。
「あー…やっぱりそのマント超サイコー。良く似合うよ」
「ありがとうございます。とても温かですわ」
オリヴィエの言葉にロザリアは微笑む。
「そのドレスに羽織るためのデザインとカッティングだからね、隙間がないんだ」
似合う似合う、と、オリヴィエは目を細めた。
「…でも暖かいところでは脱いでおこうか。外に出た時に寒くなるからね」
さりげなくロザリアと対になるデザインのコートを脱ぎ、ロザリアにも手を差し出す。
ロザリアも逆らわずにマントを脱いでオリヴィエに渡した。オリヴィエに見せるためだけに着続けていたのだ。見せたのだから、もう脱いでもいい。
「それで、どうでしたの?」
砂時計の砂が落ちきり、ティーカップに紅茶を注ぎながらロザリアはたずねた。
「ああ、いーかんじに収まったと思うよ。オスカーも、ありがとう、すまなかったってさ」
陛下に雪を降らせるようにお願いしてくれてサンキュ。
オリヴィエの言葉にロザリアはいいえ、と首を振る。
「わたくしも、ちょうど久しぶりに雪が見たいと思っておりましたの」
たまには冬の装いも楽しみたいですし。
「ジュリアスとオスカーのことは、そのついでですわ」
そうかい? とオリヴィエはカップを受け取りながら笑う。
「雪の中のジュリアスはきれいでした?」
「完璧。一回でいいからあの顔にお化粧してみたかったんだよねー」
ふふふ…とオリヴィエは満足そうに笑う。ロザリアは自分のカップにももう一杯注いで、オリヴィエの隣に座った。
「オスカーのこと、意外だったかい?」
ふと、笑いをおさめて静かに聞いてくる夢の守護聖に、ロザリアはそうですわね…と静かに紅茶を口に含む。
「最初にお会いした候補生の頃は、たいそう女性にお優しくて…」
「軽薄なヤツって言ってもいいんだよ」
事実だからね、と言うオリヴィエにロザリアは首を振った。
「女性なら誰にでもお優しいからこそ、どこか一歩引いているようにも思っておりました」
例えば…
「私や陛下がなにか危ないことに関わろうとしたら、あの方は全力で阻止しようとするでしょう」
私たちを監禁してでも危険なことはさせない。代わりにご自分がそれをするとおっしゃるでしょう。
「でも、ジュリアスが危険なことを必要なことだと言い、自分がそれをすると言ったら」
最初は同じようにまずは止めるように説得を試みるだろうが、それでもジュリアスがこれは必要なことだと言えば、最後は好きなようにさせるような気がする。
「そして、一緒について行くだろうと思いますわ」
いざとなったら、共に死ぬために。
「わたくし達のためには代わりに死ねる。ジュリアスのためなら共に死ねる」
どちらが強い愛情というわけではない。強いて言えば、スタンスが違った。
「わたくしも、アンジェも、あの方のそういう部分をどこか感じていたように思いますわ」
だからあの方がご自身でそのスタンスの違いに気づいたのは、良かったと思ってますの。
「…そっか」
「オリヴィエは意外でした?」
「ん? んー…どうかな…」
オリヴィエは遠い目をして光る壁を見つめた。
「…いや、もしかしたら、誰より意外に思ってるのは、本人かもしれないと思うんだ」
アイツ、自分は女性にモテること知ってるし、まーそれなりに経験も積んでるからね。
まさか自分が同性に恋愛感情を持つとは思ってなかったろうし、あそこまで臆病に、奥手になるとも思ってなかったろうなって。
「生きてると、色んなことが起こりますわ」
「そうだね」
おおらかにまとめて、女王補佐官と夢の守護聖は微笑みあった。
「とにかく、皆が幸せになれるようにするのが陛下やわたくしの仕事です。惑星の民も、あなた方守護聖のことも」
「…それから、自分自身もね」
オリヴィエの手が、するりとロザリアのほほをなでる。
ロザリアはその手に目を細めて「そう、わたくしたち自身も」とうなずいた。
「さーあ! 準備できたわよー!」
突然元気いっぱいの声が中庭に響いた。
ドレスを脱ぎ、モコモコとしたピンクのコートの下にジーンズと長靴という勇ましい出で立ちの女王アンジェリークが満面の笑みで中庭に飛び出してくる。なんと手には軍手だ。
「んまぁぁ!」
ロザリアが声をあげた。
「アンジェッ! あなたはもう候補生ではありませんのよ! なんて格好を…!」
「だってドレス着て雪合戦なんかできないわ!」
勝つわよー! とぶんぶんと腕を振るアンジェリークにロザリアは頭を抱える。
「あああああもうあの子ったら…!」
「陛下―!」
「こっちこっち!」
ランディとマルセルが手を振った。
「あー…動きやすそうですねぇ…」
「あ! ルヴァもやるの? じゃあ二対二ね?」
格好など全く気にしない彼らの声にオリヴィエは笑い転げる。
「ロザリア、アタシたちも行く?」
「え…えええええっ?」
ほら、行こう行こう!
オリヴィエは先ほど脱がせたマントを手に取り、ロザリアに着せかけながら言った。
「ドレスでも雪合戦はできるところを見せてやりなよ。それにアタシ、雪合戦はちょっと強いんだ」
せっかくの雪だよ。遊ぼう!
「おーい! 三対三でやろう!」
「え…わ…わたくし、雪合戦はやったことが…!」
「大丈夫大丈夫! 雪を丸めて投げるだけだよ! 雪玉に当たりたくなかったらアタシの陰で隠れておいで」
そんなことはできませんわ!
「丸めて、投げるだけですのね?」
言った女王補佐官はすでに負けず嫌いの目をしている。
「わーい! ロザリア! 一緒にやろう!」
アンジェリークがぴょんぴょんとはねながら言う。
「ええええ? あの、チーム分けは公平にじゃんけんにしませんかぁ…?」
「ルヴァ様、どうしたんですか?」
「いえ…あの…オリヴィエは…」
首をかしげるマルセルにルヴァはすでに逃げ腰になりながら引きつった笑みを浮かべる。
「ふふーん…ルヴァ、戦う前に負けるつもりかい?」
「ああああのですね、負ける戦はしないというのも立派な戦略で…」
「ダメダメ! ほら、やるよー!」
ワイワイとした声を尻目に、のそり…と天幕に入ってきた人物がいる。
闇の守護聖は物憂げに椅子に座り、明るい中庭を眺めやった。
先ほどまで水の守護聖に頼まれて雪像のモデルとやらを務めていたのだ。
立っているだけでいいと言われてしばらくは付き合っていたのだが、ゼフェルとやり取りしているうちに水の守護聖の雪像はだんだん進化を遂げていき、もはやモデルは必要ないと思われたので、そっと休憩に来たのだった。
ゼフェルは自作の雪積みロボットに手伝わせて、すでに王宮の三階の高さほどはある恐竜か怪獣を造り、今は細部を細工している。
リュミエールははじめその横で控えめな大きさの人魚像やクラヴィスの立像を建てていたのだが、一回ゼフェルが積み損ねた怪獣の首部分が落ちた時に作りかけだったらしいクラヴィスの雪像がつぶれ、今は何か…巨大なクラゲかイカの怪物が足元からゼフェルの怪獣を狙っているような像を異様な熱を込めて作っている。こちらはすべて自力で雪を積んでいるのだからすさまじい。
「平和だな」
雪の反射で眩しい中庭を眺め、クラヴィスはつぶやく。
そして手のひらに持ってきていた一掬いの雪をティーカップに盛り付けた。
長い指がティーカップに盛った雪をなで、テーブルに盛られていた菓子皿から小指に先ほどの赤いボンボンキャンディーを取り上げ、ちょんちょんとつける。
あっという間にティーカップから顔を出す愛らしい子ウサギが出来上がった。
クラヴィスはしばらくそれを眺めていたが、そっとそれを天幕の外に持ち出した。天幕の中はあたたかい。テーブルに置いておいたら、子ウサギは時間をおかずして溶けてしまうだろう。
ティーカップを外の木陰に置いて戻ると、天幕に入る前にメイドに言いつけていた暖かいコーヒーが運ばれてきたので、クラヴィスは冷えた指先をコーヒーカップで温める。
そして中庭で始まった激しい雪合戦と、何かおどろおどろしい効果音でも聞こえてきそうな雪像造りの競争に目をやった。
「…………平和だ」
クラヴィスは目線を動かして自分の造った子ウサギを目を合わせて、もう一度つぶやく。
「何か聞こえるか」
クラヴィスは微笑んで語りかけた。
雪のウサギはつぶらな瞳で闇の守護聖を見返し、耳をピンと立てている。まるでどこかから聞こえた、春の気配を探そうとしているかのように。それが嬉しくてたまらないというように。
クラヴィスは小さくあくびをした。天幕の中はあたたかい。昼寝をするには最適だ。
「よかったな」
クラヴィスはつぶやき、静かに目を閉じた。
作中交読文:約聖書 詩篇91篇より
終
遅刻の上に推敲できないまま送ってしまい申し訳ございません。でも参加するコトに意義があるということで…お許し下さい。 みぎわ
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